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2005/05/29

■その2:南京大虐殺

【傾向と対策2】

前記事でTBが同意見ばかりと書いたら、見事に反対意見(?でも無いが)のTBがついた。ご覧いただければ分かるが、実に詳細な調査と研究に脱帽する。しかし残念ながらサンフラン条約11条否定や憲法の信教自由との矛盾に対する答えに到る材料ではあるけれど、答えにはなっていない。

これはTBの意見が悪いのではなく、市井の民が行う研究・啓蒙としては、本当に頭が下がる思いだが、肝心の政府が歴史認識や安国問題に対して何もしないで、選挙の道具にしかしないから、これが限界なのだ。

さて、今日の話題は前回述べた中国や韓国とは所詮歴史認識が平行線ということ。その最たるものが南京大虐殺だろう。

http://www.geocities.com/TheTropics/Paradise/8783/15a.html#04

などのホームページで、南京大虐殺の虚構を証明しているが、膨大な資料収拾と分析及び研究には本当に頭が下がる。客観的に見て「虐殺肯定派」は客観的証拠が不十分で、「虐殺否定派」の方が客観的証拠が豊富で辻褄が合っているように思う。

では虐殺がなかったかと言えば、それでも30万人はオーバーにしても虐殺はあったのではないかと思ってしまうのだ。その理由は本ブログの最初に述べたように日本人の民族性にある。「日本人の正義感」と数の上では少数派だが「凶暴な日本人(=演歌派)が支配する」点がそれだ。

日本人は決して残忍ではないことは、日々の犯罪を見れば分かる。日本人の犯罪には外国のそれと比べて残忍なものはほとんど無く、近年博多で起きた一家惨殺事件などのような凶悪で残忍な事件は中国などの外国人が起こしている。だから直感的にも南京大虐殺はむしろ中国がやったのではないかとも思う。

しかし、大多数の日本人には正義感が無い。正義感が無いから常に「長いものには巻かれろ」で損得が優先し、このため時に不正に立ち向かう人がいても助けるどころか冷ややかで、「出る杭は打たれる」のだ。そして本音と建前のダブルスタンダードで違法行為が堂々とまかり通る。談合はその最たるものだろう。あるいは堕胎を合法化していて、その捨て方が悪いと処罰する国は、日本くらいなものだ。

自らを公器と呼びながら、マスコミはこういったことに非常に冷淡だ、溺れる犬に石を投げるように橋梁談合での逮捕者を非難はするが、決して本質には迫らないから、役人たちは平然と知らぬ存ぜずを押し通す。

或いは身近な日常生活を例に取ってみよう。正義の番人であるはずの警察が物陰に隠れての交通取締りとか、足をついたかつかないかとか、全く姑息で情けなくなる。ついでに言えば、運転免許取得検定を思い出していただきたい。左右確認で大げさに顔を左右に振っていなかっただろうか、視点がぶれて何も確認できないが、本当に安全確認するという本質はどうでも良くて、取り締まる側の都合だけなのだ。

度重なる冤罪にしてもそうだ。長野サリン事件での河野さんは、警察から未だ謝罪を受けていない。こんな理不尽な話があるだろうか。組織のメンツなんだろうが、これは権力の横暴、正義の番人としてそこに関わった人々の正義感を聞いてみたいものだ。

こういった話、一見南京大虐殺と無関係に見えるが、実は戦後民主化されたはずの同じ民族の話なのだ。そして虐殺否定派は余り触れたがらないが731部隊という身の毛がよだつ部隊が存在していた。上官の命令とはいえ、人を救うための医学知識を人体実験に使う神経は理解を超えるものだが、一人二人ではない、部隊全員がこの目的で行動していたのだ。彼らは志願したわけではあるまい、そこが日本民族の恐ろしいところなのだ。

だから、残虐な上官の命令で30万人はオーバーとしても100人単位1000人単位の、写真に撮ったら虐殺と見える殺戮はあったとしても不思議ではない。何より日本軍自身が、兵に食料も弾薬も持たせず自軍を、死地に追いやっていたではないか、直接手を下さずともこんなに惨い事は無く、南京大虐殺どころではない。

古今東西の先史の中で、武器弾薬も不足し、餓死する事が分かっていて、その上生きて虜囚の辱めを受けるなという、戦うことよりも死ぬことを目的としたような作戦があっただろうか。結果として兵站輸送が出来なかっただけと言うのなら、救いがたい低脳だろう、制海権も制空権も無いことが理解できてない作戦だからだ。

敵と戦って死ぬならまだしも、餓死の方が多いというのでは、何の為の戦争なのか、犬死を命令された戦士の無念さは計り知れないだろう。これこそ史上最大のホロコースト、それも自軍による自軍の大量殺戮だ、自虐的に考えたくなる日本人の戦争体験者の気持ちは良く分かる。

ただ、戦争自体が狂気にあってはこういった虐殺事件はつき物だ、だからと言って正当化できるはずも無いが、同じくその国民性から考えて直接手を下しての大虐殺など出来ようも無いのも事実。だから、生き証人がいるうちに日中合同で徹底的な調査を行い、非があったなら非を認め、客観的事実を確定すべきなのだ。

何度でも日本政府はこの調査を中国に申し入れるべきだ、その結果中国が調査に協力しなければ、それは自ら非を認めたこととして国際世論に訴えるべきだろう。生き証人は次々と亡くなっているし物証も失われていく。もう余り時間が無いのに、あたかも時が解決するかのように日本政府が問題先送りしつづける姿勢こそが、日本国民を不名誉ならしめるものとして、国民は怒るべきなのだ。

怒りの矛先は、中国よりむしろ自国政府にある。何より中国の歴史認識は一つで教科書も一つだ、これに対し、日本は様々な教科書があると自慢するが、バカではないか。般出版物の話をしているのではないのだ、国民が独自に様々な研究をし、学説を唱えるのは大いに結構なことだが、国家としての歴史観の話なのだから統一すべきであり、したがってその材料として、歴史の事実を伝える歴史教科が複数あること自体おかしいではないか。

しかも、日本政府は極東軍事裁判で突然出てきた南京大虐殺を認めたままだ。国際社会で公式に認めたまま、公式な訂正をしないまま、年々検定問題が起こり、年々その内容が少しづつ変化しているから、近隣諸国にしてみれば、そのうち日本は侵略戦争を大東亜共栄圏構築のアジア救済戦争と言い出しかねないと思うだろう。

ここにも、簡単な事をことさらややこしくして、複雑な式で無理やり地動説を証明するような印象を受けてしまうのだ。

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2005/05/26

■再び靖国問題について・・・その1「極東軍事裁判」

拙ブログ、情けないほどTBが無い中で、靖国問題にだけは、TBが付いたので、再び靖国問題について書こう・・・・と思ったら書くことが無い。

http://yahhoo.cocolog-tcom.com/goodwill/cat3221753/index.html

で述べたのは、①サンフランシスコ平和条約との矛盾、②憲法(信教の自由)との矛盾だが、これで全て。だからこれ以上言うことが無い。

しかしたったこれだけの単純な疑問に、靖国派の人々は絶対にストレートに答えないで、先ずはヒステリーを起こすのが常だ。必ず論点をずらした攻撃をしてくるので、リアルタイムで非論理性とヒステリーを解析し証明しようと目論んだのだが、これといった書き込みも攻撃も無く、私のもくろみは失敗してしまったようだ。

当たり前だが、TBは基本的に小生と意見を同じくする人々だった。ところで私は頑なに靖国を否定しているのではない。上記矛盾点が解決されれば自説に固執することなく受け入れるともりだ。しかしそれにはサンフランシスコ平和条約11条への公式な国際世論の修正と憲法改正が必要だ。

唯一頂いたコメントは、サンフランシスコ平和条約11条を否定できるかの論調だったので期待したが、どうもそうではなさそうだ。それに右翼系の反論にしては紳士的だった。ま、これは余談だ。本題に入ろう、誰も牙を剥いてこないので、よく右翼系が挙げる論を例にその議論の傾向と対策を示してみようと思う。ま、暇つぶしにお付き合いくださいな。

     戦犯問題は極東軍事裁判自体が無効で、国際法学上も定説である。

こういう理屈、非常に多い。そこだけ見ればそのとおりだと思う。だが、論点はサンフランシスコ平和条約11条を日本が「受け入れた」つまり「罪を認めた」事なのであって、罪の真偽ではないから、関係ない。「あー、そう。それで?」でオシマイなのだ。罪を認めておいて、後になって身内同士で無罪だと騒いでも、裁判のやり直しをしない限り失笑を買うだけなんだが、一向にこういう筋違いの反論が後を絶たない。

だがついでだから、極東軍事裁判について少し話そう。パール判事の言葉を借りずとも勝った方(=より多く殺した方)が負けた方(=より多く殺された方)を裁くことの矛盾は小学生でも分かる。だったら何故日本は受け入れたのか。間違っていることが分かっていて、戦勝国の言うことだからと従ったのならば、日本人は国を挙げて強い者の言うことには白を黒といって従う卑屈な民族ではないか。

そして、後になって国力が付いてきたら、他人のことばを借りたり、色々な解釈を付けてはあれは無効だと言う。なんともハヤ、何故真正面からサンフランシスコ平和条約を否定し、それを国際社会のルールで明文化しないのだ。日本人は卑屈な上に卑劣だと言われても仕方が無い。

自衛隊が軍隊か否かも同じだ、世界有数武力なんだから能力としては明らかに軍隊。なのに、軍隊として機能しない。それを場当たり的な法解釈を続け海外派遣までやってのけた。いやはやだ。しかしこの自衛隊問題は戦犯問題と異なり、完全に国内法規の問題であり、他国に指示を受けるものではない。だったら憲法改正すればよいのに、それも出来ない。非常に曖昧なのだ。

日本が曖昧なのは日本の勝手といえばそのとおりだが、その曖昧な日本人が他国との関り方や歴史認識を言うならば、勝手では済むまいし、誰も信用しない。必要以上に自虐的になるのは卑屈というものだが、かといってキチンと総括をして決着をつけないでおいて、後になってあれこれ言うのは卑劣と言うべきだ。

歴史認識を自虐史観と反発する向きの論理は、例えて言うなら地動説が分かっていながら天動説に固執するのに似ている。太陽が中心と言う事実を認めた上で、地球の意義を言えば良いのに複雑怪奇な数式で、なんとしても地球が中心であると証明したところで信じる者の間だけの特殊解の一つに過ぎず、普遍性は無いからだ。

お分かりいただけるだろうか、私は自虐的史観を認めろと言っているのではない、戦犯問題も歴史認識も何らかの認識を他人に求めるならば、自分や自分の身内だけが信じても何の意味も無い。相手を納得させるか文句を言わないと約束させなければ、ただの独り言や癇癪に過ぎないのだ。

こういうと、中国や韓国とは所詮歴史認識が平行線だとしたり顔で言われる事が多いが、それが分かっているなら、なぜその前提で戦略を立てないのだろうか。何時までも平行線のままで行こうというのだろうか、だとしたらバカだ。日本が加害者であることが国際世論の前提なんだから・・・。これについては次項で述べよう。

                                                                                ・・・つづく

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2005/05/25

■コクド再生に見る、日本の闇

コクド・西武をめぐる一連の事件は無茶苦茶オカシイ。ホリエモン事件ではあれだけ騒いだのに、なぜこの問題は3面記事の域を出ないのか。日本を支配する深い闇を感じてしまう。

【その1:オーナー逮捕の怪】

まず、ここから分からない。そりゃ確かに所有株の過少申告は、上場基準に抵触し違法かもしれないが、持っているものを持ってないと言っただけだ。金持ちが金持ちじゃないと言うようなもの。企業としてはこんな余裕の有る話は無いだろう。よだれを垂らす経営者は少なからずいたはず。違法と言えば違法だが、実際誰が迷惑したのだろう、オーナーが逮捕され、企業が解体されなければならないほどの事なんだろうか。

【その2:誰が被害者かの怪】

で、上場廃止に追い込まれ株主が大損したと言うがホントかね。倒産したわけじゃ有るまいし、売買できないなんてことも無いし、村上ファンドが高く買うと言ってるから、価格が下がることも無い。一体誰が被害者なんだ?被害者のいない犯罪?そんなことで追及され自殺者が出たが、おかしくないか。

【その3:債務超過でもないのに再生の怪】

西武グループは債務超過でもないのに、筆頭株主抜きで銀行が債権だの再生だの騒いでいるが、会社は株主のモノではないのか。経営不振でもない会社を寄ってたかって食い物にする。ハゲタカファンドとはこのことだろう。

【その4:株主不明の怪】

西武の親会社コクドの株主堤氏の36%以外判然としない。名義株の真偽を問う裁判が継続中だからだが、どちらにしても堤氏が支配する大株主である事に変わりが無く、それでいて経営から排除されている。そして真の株主が分からないまま再生案が決定されていく。これって、ものすごい違法行為じゃないのだろうか、少なくとも上場基準に抵触云々のレベルではないが、こちらでは誰も逮捕されない。同じ事件でこんなバランスを欠いた話、おかしくないか。

【霧の向こうに見えるもの、見えないもの】

この事件、銀行は全く再建など考えてなくて、債権回収だけなのはミエミエだ。遠からず生きた人間から臓物を抜き取るように、種籾まで回収し破綻に追い込むだろう。それを、手術により生き返らせるのは、おそらく外資だ。あるいは、さらに骨までしゃぶるかもしれない。

なんでもない健康体をベッドに縛りつけ、訳の分からない薬や手術でおかしくしたのは、一体誰の差し金だろう。不可解という霧の向こうが見えない。日本の恐怖は何時我々の身に降りかかるか分からず、マスコミも一斉にバッシングするから誰も助けない、それどころか石を投げられるだろう。

言ってる意味、お分かりだろうか。アナタが役人でもない限り、トヨタだろうが日立だろうが、ある日突然、闇に狙われたならオワリ、なすすべが無いということだ。

平和な国、ニッポン。ばんざい!

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2005/05/24

■談合摘発~いつまで続くこの茶番

橋梁工事の入札談合が摘発されたが、この茶番、いつまで続けるつもりだろう。談合は勿論日本でも表向きは犯罪なので、時々思い出したように公取が取り締まるが、取り締まる側も、取りしまられる側も単に運が悪いとしか思っていない。

談合は、あたかも業者の利益を守るかのように報道されるが、天下り先確保のシステムであり、役人の権益確保に企業が踊らされているだけだ。だから談合がなくなると最も困るのは役人と癒着業者であって談合業者ではない。談合が無ければ無いなりに正統な競争が行われ実力有る業者は伸びていくからだ。

入札に指名されるのは、天下り企業である。限られた企業が入札指名されるのだから、当然に発注者の意をくんだ談合となる。いわゆる官製談合だが、別に官製と断りを入れなくとも談合は全て官製なのだ。

だから談合を仕組んでいて、白々しくも天下り禁止だの談合摘発などと官が言うのを聞くと、思わず吹き出してしまう。天下りを本気で禁止するなら、横須賀市のように談合が出来ない入札システムにすればよい。天下りを受け入れても何のメリットもないから何処も天下りを受け入れなくなる。実に簡単なことだ。

次に談合の禁止だが、何も摘発する必要は無い、横須賀市のように一般公募にするか、談合しない業者を1社でも入れれば、談合は不成立となる。だがそれでは天下りできなくなるから、談合を拒否する業者は行政から排除される。長野で談合拒否した第一測量が良い例だが、私の知っている建設業者も談合を拒否したために、その後入札指名に入らない。完全に役所から締め出されてしまったのだ。

談合を摘発されると、3ヶ月から半年間指名停止処分を受けるが、では談合を拒否しようものなら永久に指名から外されるのだ。指名停止は行政処分だが、締め出しは黙って行われるから苦情も言えず泣き寝入りしかない。こんなむごい話があるだろうか。これでは談合奨励、正に公正取引の妨害だが、公取がこういった役所の仕打ちを取り締まったなどという話は聞いたことが無いし、マスコミも決して取り上げない。基本的には同じ穴の狢だからだ。

だったら、談合を合法化すればよいではないか。法を破れば罰せられ、守ればもっと罰せられるなんて、独裁国家だって無いことだ。本当に日本の社会制度は分からない。日本人はそんな社会に暮していて不安じゃないのだろうか。

国がもし本気で談合禁止というなら、談合拒否の業者にはインセンティブを与え優先的に入札指名すべきだ、少なくとも陰に篭った過酷なペナルティは止めるべき。そしてこの国ではあらゆる分野に談合が浸透していて、マスコミも例外ではないから余り本気で取り上げないが、本気でこの国の行く末を考えるなら、真面目に談合問題を取り上げるべきだろう。

何より、仕組んだ張本人の国土交通省にしても道路公団にしても、知らぬ存ぜずで、業者だけが罰せられるのでは、法治国家ではない。

例えば、或業者が参加した入札では必ず価格破壊が起きるなら、この業者は談合しないことが分かり、次にこの業者を指名に入れれば、談合が起きないで必ず価格が下がることが予測できる。となれば、予定価格の90パーセント以上の落札は談合だろう。それでも、談合があったとは思わないと主張する国土交通省や道路公団は自然科学さえ通用しない世界と言うことだ。ひょっとすると、道路公団の事務所では水が下から上に流れていくのかもしれない。

まあ、望むべくも無いが、しかし競争原理の働かない社会が衰退することは、事実上社会主義が崩壊したことでも明らかだから、いつまでもこんなことを続けていたなら、日本の3等国入りは遠からず現実となろう。

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2005/05/20

■安楽死事件に見る日本人の正義感~悪には寛大だが、善意や正義には異常に厳格な日本人

日本には、先進国では犯罪であったり、倫理的には許されないことが、ケッコウまかり通っている。それを日本人は悪習と蔑みながらも、自ら必要悪と呼んで正当化しているようだ。

例えば、談合とか暴力団が良い例だろう。談合は日本全国あらゆる分野にはびこっていて、公器を標榜するマスコミも例外ではないから、誰も本気では糾弾などしない。また暴力団は一目でそれとわかるが、アウトローが堂々とそれとわかる格好をしている国なんて、日本以外には無い。

このように日本では、悪が必要悪として堂々とまかり通り、アウトローたちには警察も甘く、誰も関わりたがらないので、交番に助けを求めた人が殺されたり、警察にストーカー被害を訴えても、無残に殺されたりする。さらには犯人よりも被害者が人々から憎まれる事が多く、被害者への誹謗中傷は後を絶たない。被害者の人権より加害者のそれが優先されたり、騙されるほうが悪いと言われるのは日本だけだろう。

日本人は悪には寛大だが、善意や正義には異常に厳格だ。悪が怖いのか好きなのか、善意を信用しないのか、どう考えても理由が良くわからないが、そこで気になったのがこの事件。http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news_i/20050519so13.htm

患者の家族から頼まれて、90歳の植物人間の人工呼吸器を止めたことが、殺人罪という。この医者はむしろ自分の地位や名誉よりも患者とその家族の苦しみを救った英雄(女医さんだが)ではないか。

確かに、治療とはいえ尊厳死を簡単に認めてしまっては、歯止めが利かなくなる恐れがあり、事が人の生命に関することだから厳格にならざるを得ないのだが、その一方で無限の未来を秘めた胎児を、親の都合で抹殺しても罪にはならないのだ。

法律がそうなっているからだが、何故日本のジャーナリズムはこれを黙っているのだろう。本当に不可解だ。それでいて要望した家族が罪に問われないことや、いったいどうしてこのことが分かったのかも不思議だ。

この場合、この医者はどうすればよかったのだろうか。そう、知らん顔すれば良かったのだ。患者や家族が苦しもうと、医者の知ったことではない。横並び思想のこの国では、本当に相手のことを思う善意は、何故か忌み嫌われるのだ。

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2005/05/18

■ステレオタイプ

最近よく聴く言葉に、ステレオタイプと言うのが有る。イミダスによれば、偏見の一種だとか。「偏見には認知・感情・行動3要素があるが、行動要素に限定したものが差別、認知的要素が全員に一般化されたものがステレオタイプである。」だと。何かしっくりこない。

ガイジンが言うのもヘンだが、まず日本語としてこの説明文の構造がしっくりこない。~タイプというのは、対象物を幾つかの集団に分類した時の集団を表す言い方、例えばお金持ちタイプとか、スポーツタイプとか。で、普通それ以外に貧乏タイプと言ったように説明されるか暗黙に分かる。

で、さらにその後に、スポーツタイプの車というように個々の属性の説明がある。だから「偏見」を幾つかに分類してその1つがステレオタイプというのならわかるが、認知・感情・行動3要素に分類したうち、「認知的要素が全員に一般化されたものがステレオタイプである。」というのは、偏見をいくつかに分類し、そのうちの認知的要素をさらに分類した形であるはずなのに、認知的要素分類の結果がステレオタイプ1つしかなく、ステレオタイプ以外の説明も意味の説明もない。

なに、分かりにくい?要は、偏見の要素のうち、行動要素=差別としているから、認知的要素=ステレオタイプというのなら分かるが、認知的要素の1つにステレオタイプがあるということなので、では他は?で、意味は?となって、何かしっくり来ないのだ。

言葉の意味の説明なのに、その言葉の意味の評価をしてしまう。形而上学的ってどういう意味ですか?と聞くと、それは難しい哲学上の表現です、とか日本ではこういう説明、ケッコウ多い。

加えて日本語には言葉自体に意味をなさなかったり、意味不明の言葉が多い。「数日のうちに・・・」の「数」などは、1~9全部を意味しておりその代表だが、他にも「目線を下げて・・・」とか「信頼関係が・・・」、「そうなると、あれですから」、「基本的には・・・」といった言い回し等もそうだ。

「基本的には」って言われてもなあ。「故障しませんか?」「ハイ、基本的にはアレですから大丈夫です」なんて言われると、「基本的」ってどういう意味?と突っ込みたくなる。それにアレって何?故障しないか聞いているのに、大丈夫とは?大丈夫かどうかはこっちが決めることだろ!

ついでにもう一言、何の意味も無い言葉で気になるのが「ホウ」。「お勘定のホウお願いします」とかの「ほう」は有っても無くても意味は全く同じ、言葉の経済性から言えば全くのムダと言えよう。

レストランで「お座席のホウ、奥のホウにご用意してあります。足元のホウご注意下さい」などと言われると、回し蹴りのイッパツも食らわしたくなるとは日本の友人の弁。頼むよニポンジン、分かる日本語使ってくれ!

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2005/05/15

■斎藤昭彦さんイラクで拘束といえば・・・

【今日の話のポイント】:私の話どうも長文過ぎると反省、言いたいことはこれです。

Ø  戦争体験者は悲惨さを訴えるばかりで、実戦体験を伝えていないが、これはもったいない。存命中に是非、実戦の様子・テクニックを伝えて欲しい。

【説明】:以下はその説明。また長文になってしまった。(反省)

斎藤昭彦さんイラクで拘束といえば、思い出すのは高遠さん・・・ではない。日本人の戦い方のテクニックだ。何のことか分かりにくいだろうが、斎藤昭彦さんは元仏外人部隊という、となると同じく元仏外人部隊にいた作家柘植久慶氏を思い出す。柘植久慶氏と言えば、その戦闘シーンのリアルさは群を抜いていて、具体的戦い方のテクニックの記述には感銘を受ける。そんな訳で戦い方のテクニックを思い起こした次第。

話が飛びすぎているので少し説明しよう。日本にはまだ先の大戦で戦闘を体験した多くの方がいる、言ってみれば実戦のエキスパートでもあるわけだ。ところが戦争の悲惨さを訴えるばかりで、せっかくの実戦経験ノウハウが全く活かされていない。とは日本の友人の弁

大きな書店に行くと戦争コーナーがあり多数の戦争関係著書が並べられているが、どれもがその悲惨さばかりを扱っていて、確かに戦闘自体を扱っているものは皆無に近く、唯一戦闘機乗りの著書に若干、戦いの実際や戦い方が載っている程度だ。

そういう中にあって、例外的に戦闘の実体験や戦闘の仕方を具体的に書いているのが、作家柘植久慶氏の著作群だ。戦場での迫撃砲弾の落ち方や破裂の様子、サバイバルのノウハウ等クールでリアルな表現は読むものを震撼させ、100の悲惨な話よりはるかに戦争の残酷さを実感できると同時に、不幸にも事あるときの対処が学べるのだ。

例えば、ナイフで相手を刺すときは、わき腹を狙い刃を肋骨と平行に刺せば、スッと内臓に達し致命傷を負わせられるが、直角では骨に当たってうまくない。砲弾が破裂するときは口を大きく空け、肺の破裂を避ける。弾が上に逸れるときはたいした敵ではないが、下に着弾するときは注意すべき。何故敵を十分にひきつけてからではないと攻撃してはいけないか等々、実体験に裏打ちされた表現は、フィクションを超えたリアルさで読む者を圧倒する。

この柘植久慶氏が、実は斎藤昭彦さんと同じく仏外人部隊を経てグリーンベレーの格闘教官まで勤めた人物なのだ。あくまでかってな想像だが、斎藤昭彦さんは柘植氏に啓発されて外人部隊に入隊したのではないだろうか。茹で蛙のような状態のニッポンにあっては、命のやり取りをする戦場に、ある種の憧れがあるとは日本の友人の弁だが、確かに警察官僚OBらがテロや戦闘を解説しても、今一つリアリティが無く頼りない。

ちなみに仏外人部隊では、仲間が戦闘で重症を負ったら置いて行くのがお互いの不問律だそうだ。戦闘のプロフェッショナルとしては、一人のために部隊を危険にはさらせないからで、センチメンタリズムの入る余地は無い。

そういえば、日本の戦争体験記の中で数少ない実戦解説に坂井三郎の空戦記があるが、その中で確か「戦闘は1撃で決まる、その点、ボクシングなどで力を温存して最後に逆転するのと根本的に違う。ボクシングはスポーツだから出来ること。戦争は殺すか殺されるかなので、第2ラウンドは無い。」と述べていたのが印象的だった。

戦争は悲惨だ、そんなことは父母達からも聞いて十分に分かっている。それらを書いた書物ももう十分過ぎるほどある。出来ることなら、先の戦争で実戦を体験した方の戦い方の実際を聞いてみたい。自衛隊には定年があるため一人も実戦経験者がいないのだ。平和ボケした日本にあっては、彼らは貴重な実戦経験者なのだから、存命中に記録を残しておいて欲しいものだ。とは、友人の弁。私もそう思う。

日本では、戦争反対・核兵器反対といった運動やデモは目にするが、核シェルターの話題には出くわさない。しかし北朝鮮がはじけたら危ないし、最も危険なのは中国であることを知識階級は分かっているはず。「こうあるべきだ」と「こうである」とは違う。建設業者を食わせるために道路を掘っては埋めてと無駄な投資をするくらいなら、万一に備えての核シェルターくらい造るべきではないか。

しかし我々市民には、とてもそんな余力はないから、せめて戦闘のノウハウくらいは知っておいて損は無いはず。外人部隊20年のベテラン斎藤昭彦さんは、覚悟を決めてのイラク入りだろうし、実戦経験も豊富だろう。しかし我々にはとてもそんな覚悟も能力も望むべくも無いから、使う機会が無ければ最高にGOOD、不幸にして使う機会があれば、身を守れる。

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2005/05/13

■ 中絶胎児廃棄に有罪?って論理がつながってないぞ!

中絶胎児を普通ゴミとして捨てていた事件で、元医院長が有罪判決を受けた。

http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20050512/eve_____sya_____003.shtml

<引用開始>

途中省略・・・

 この事件を受け、厚生労働省と環境省は、生命倫理上問題があるとして、妊娠十二週未満であっても中絶胎児は火葬するなど丁重に扱うよう都道府県などに通知している。

<引用終了>

ここだけ読めば、まあそうかなとも思うが、変だぞ、絶対に変だ。

①「火葬するなど丁重に扱うよう」って、じゃあ人間だって事ではないか。と言うことはこれは殺人だろう。日本の法律では、何の罪も無い胎児の抹殺を医師に依頼して実行したことは問題にならなくて、その後始末の仕方が罪になる?一体どうなっているのだろう。

②堕胎が罪にならないのだから、これは医療行為という位置づけだろう。ならば、中絶胎児は手術で摘出された臓器だ、しかしこの臓器は別に病気ではないから悪性の病原体に犯されている訳ではない、つまり肉であり生ゴミだ。(実態の話ではない、ここでの論点は罪即ち法における解釈の話をしている。念の為)

③生ゴミの捨て方が悪いからとこの元医院長は、廃院に追い込まれ、有罪判決を受けた。

さて、冒頭述べたように③だけ見れば、当然の報いだが、事件は①→②→③と繋がっていて、論理的には②が正当な行為なら③生ゴミを捨てた元医院長に問題はないはずだ。なのに、③だけを取り出して罪を問うのは一体どういうことだろう。論理が繋がっていないぞ。

この国では相手が胎児の場合、殺しても罪にならない。法律上そうなっているからだが、その死体の始末の仕方は法律上不明確で、そこだけ倫理が優先し、罪になったらしい。

巷では、ハイスクールに通うティーンエイジャーが娼婦のような恰好で歩いているが、こんな光景は日本だけだ。中には実際に援助交際などと言いながら売春し、そういう子供たちが仲間からカンパして堕胎するという。その後始末の最後の部分だけ倫理観が働くとは、オー・ニホンジン・アンビリーバボー!

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2005/05/12

■ 靖国問題に見る日本人の非論理性

小泉首相の靖国参拝が定期的に問題となっているようだ、定期とは毎年参拝の時期が来ると国内外で騒動が起きるが直ぐに国民の関心は薄れ、これを毎年繰り返していることをいう。そして判で押したように中国始め近隣諸国の言い分と国内の反論が全く噛み合っていない。

中国側の主張は日本の戦争責任であり、日本に反省と謝罪を求め、A級戦犯が合祀されている靖国に首相が参拝するなといこと。対して国内世論は、内政干渉だ、償いは終わったいつまで謝罪しなければならないのかキリがない、というもの。

しかしここには2つの大きな前提条件の誤りがあり、これを訂正しない限りこの問題は永久に解決しないだろう。

【サンフランシスコ平和条約】

一つめのは対外的な前提条件の誤りだ。それはサンフランシスコ平和条約である。

さて、中国からの首相靖国参拝反対のクレーム、一見内政干渉に見えるが果たしてそうだろうか。ことの対象がA級戦犯でなければ、そのとおりだろう。日本国内の問題で、日本の首相が私人だろうが公人だろうが国内で何をしようと、外国からとやかく言われる筋合いではない。

しかし、A級戦犯問題は対外的な問題なのだ、しかも日本は1951年サンフランシスコ平和条約でA級戦犯を受け入れ、国際社会に受け入れてもらい今日に来ている。今になって、極東軍事裁判はおかしいと言う人がいるが罪を認めておいて裁判がおかしいと言うのは矛盾だろう。だったら裁判をやり直すべきだ。

こういう話をすると、今更軍事裁判をやるのかとか、一体何時の話をしているのかといった全く関係ない論理を持ち出されそうなので、念のため言うが、別に軍事裁判を開けといっているのではない。極東軍事裁判なり、それを受け入れたサンフランシスコ平和条約が間違いなら、間違いとして公式な国際社会で明確にすべきなのである。

先のJR西日本の事故では、代表者が遺族や社会に対して陳謝するなか、社員が宴会をやったのはけしからんと世を挙げて怒っているではないか。たとえは悪いが、靖国参拝はこれと同じ、謝っているのは形だけだと言われても仕方ないだろう。

だから、A級戦犯受け入れというこの前提条件を覆さない限り、時間が経ったらといって、首相が国家として内外に表明した方針に反する行動をしたら批判されて当たり前だろう。A級戦犯はけして戦犯ではないと明確に位置づけるべきなのだ。

そうすれば、A級戦犯は職務を全うしただけの日本国民であるから、他の日本国民との違いは無くなり、首相参拝は国内問題となる。この場合、中国は日本国民全体に謝罪を求めることになるだろうが、その上で明確に国家間の取り決めとして、謝罪内容を具体的に明文化し、日本は誠実にこれを実行すべきだ。

そうでなければ、日本人の子孫は永久に肩身の狭い思いをすることになる。ハッキリと何が謝罪かを決めずに、後になってやれODAで7兆円払ったとか、いつまで謝罪するのかと言ったところで、みっともない。

【憲法との矛盾】

二つめは国内に置ける前提条件の誤りである。それは憲法との矛盾だ。つまり①日本国憲法では思想信条・信教の自由が保障され、②靖国神社は宗教法人であるということ。首相が英霊を追悼するのは当然のことだが、それが特定の宗教施設では法治国家として矛盾すると言うことだ。

首相が、カルト教団に参拝していたらと考えれば分かりやすい、そこに英霊が祀られていたとしても問題になるだろう。実際にそのような事は行われていないから推測では有るが、週刊誌などではよく池田大作氏の元へ某議員が行ったとか行かないとかが取りざたされるところからも、非難されることは間違いないだろう。

もっと分かり易く言えば、こういう言い方をすると、カルト教団と靖国を一緒にするとは何事かと怒る日本人が多いが、それが答えだ。どう思うとその人の勝手であり、思想信条の自由が保障されている以上、優劣の区別などあってはならないのである。

そもそも、ことさらこんなことを長々と言うまでも無く、首相の諮問機関である「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」において無宗派の追悼施設が必要であると提言されているのだ。

くどいようだが、本論は靖国神社を否定していない。どうぞご自由にだ。靖国神社に祭られたい方は祭られれば良い。参拝も自由だ。他人がとやかく言う筋合いではない。だから、祀られないのも参拝しないのも自由のはず。靖国はそのままに無宗派の追悼施設を造れば良いのだ。中国は英霊を追悼するなとは言っていない、A級戦犯問題と靖国とを曖昧にしてゴッチャにしてややこしくしているのは日本なのだ。

例えばある外国人(韓国)の遺族が遺骨を返して欲しいと言ったら、一度合祀したら分祀できないと靖国神社は拒否をしたのだ。これはスゴイ、日本は法治国家ではなかったのか。この韓国の戦没者は未来永劫靖国に葬って欲しいという契約でもしたのだろうか。

戦前の国家神道ならば、何と言う不敬な発言かとなるだろうが、現代においては一宗教法人に過ぎないのだ。信者に対して分祀できないというのならまだしも、戦争に徴用された外国人の遺族が身内の遺骨を返せといっているだけで、靖国の教義を変えろとは言っていない。

外から見れば、靖国は憲法も及ばない国家神道なのかとなるではないか。別にそれがいけないと言っているのではない。日本人がそれでよいと言うのなら、他人がとやかく言う問題ではないが、だったら憲法に思想信条・信教の自由などと書かなければよいではないか。あるいは靖国を国家神道として堂々と位置付けるべきだろう。

余計なことと言われるかもしれないが、宗教とは思想信条の究極なのだ。だからイスラエルでは今も宗教戦争の真っ只中に有る。イラクを始め世界中で宗教戦争が起こっているのに、日本人はあまりにもこういったこと無頓着だ。

不可解なのは、結婚式はキリスト教、葬式は仏教、お祭りは神道と全く無節操でありながら、何故靖国になるとそこだけ厳格になるのかだ。おそらく明確な理由など無く、思想信条が無節操だから単にしきたりとか習慣として教義を受け入れ守っているのだろうが、じっさいのところ謎で、多くの日本人に聞いても「靖国は日本人の心だ」式の結論だけの返答で、誰一人何故そうなのかその理由は言えなかった。

日本にはこういったダブルスタンダードが、個人レベルから国家レベルまでやたらと多い。

憲法を例に取れば、これまで述べた靖国問題に限らず、平和憲法といいながら、自衛隊という軍隊を保有し、これを軍隊ではないと言う。挙句にパッチワークのように法解釈を加え、海外にまで派遣しているが、なぜキチンと憲法を改正しないのだろう。

アメリカなどは修正条項がゴマンとあるではないか。ま、しかし長くなるので憲法改正についてはまた別項で述べることにしよう。要するに、少なくとも国家の普遍的方針である憲法という前提条件くらい明確にしなくては、国内問題すらまともに議論できない、まして国際問題となれば、日本の常識、世界の非常識で、ハア?だろう。

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2005/05/11

■100人の命より大事な事

再び、脱線自己の話をしたい。未だ原因が特定できていないので断定は出来ないが、スピードの出し過ぎが原因或いは原因の1つであることは間違いなさそうだ。もしそうであるなら、これは運転ミスという人災だ。

ところが、当初から犠牲者遺族やマスコミは運転手に同情的で、あたかも彼も被害者で有るかのような報道が目に付く。曰く、直前の駅でオーバーランし、遅れを取り戻そうと焦っていたとか、日勤教育がプレッシャーになっていたとか。あたかもそういう状態に追い込んだ会社が悪くて、運転手はその被害者であるということらしい。

しかし、これは大変な論理矛盾ではないか。この論理は人命尊重・安全確保を論点としており、会社は最も大事な人命・安全より利益を優先していると言いたいのだろうが、人命尊重・安全確保を論点とするなら、運転手は、オーバーランの責任追及から逃れたいという、個人の利益を人命より優先したのだから。

会社が運転手に与えたプレッシャーは、定時制確保の為であり乱暴な運転をさせるための日勤教育ではない。日勤教育の草むしりが安全確保に役立つとは思えず、見せしめにしか見えないが、少なくとも危険には結びつくまい。草むしりと安全確保はトレードオフではないのだ。もし草むしりが直接危険に結びつくのならその理由と根拠を明確にして、報道するべきだろう。

例えば草むしりや反省文を書かされる事は、日勤教育に名をかりた人権侵害・苛めの可能性大だが、あくまで懲罰即ち叱り方の問題である。懲罰が怖くてオーバーランを過少申告したり、挙句にスピードオーバーしたりするのは懲罰が悪いとするなら、その結果100人の命が失われたのも懲罰のせいだとするなら、交通違反で切符を切られるのを逃れるために、人をひき殺しても、道路交通法という懲罰が悪いとなる。盗んだところを見つかったので殺した、だから窃盗罪が悪い。と、こういうことだ。運転業務から外されるのが怖くてムリをしたことが原因で、それが正当化されるなら、運転業務と言う仕事は100人の命より大事なことなんだろう。

だが、よく考えて欲しい。罰とは元々見せしめでありプレッシャーが無ければ意味が無い。その究極が死刑だろう。一人殺すも二人殺すもどうせ死刑だ、と犯人が犯行を繰り返したからと言って、死刑制度がなくならないのは見せしめによる抑止力のためだろう。

と、ここまで書いてきてハタと困った。日本では交通違反した犯人を、警官が追跡していて、犯人が逃げる途中に事故を起こすと、警察が悪いとなることを思い出したからだ。警察が職務を忠実に実行しても、その過程で犯人がさらに事件や事故を起こすと、その怒りの矛策は犯人ではなく警察に行くのだ。

同様に、今回の事故でも事故車両に乗り合わせて、それでもその後職務に忠実に従った2人の乗務員の処分が検討されていると言う。人命の安全確保という職務より、自己保身優先で100人の命を犠牲にしても非難されず、職務を忠実に実行すると糾弾される。この国の正義とは一体何なのだろう。

※この記事をアップした後、どうやら事故原因がほぼスピード超過と発表されたらしいことに気付いた。本稿が主張する運転手のミスのよる人災が明らかになったようだが、しかし仮にそうではなく置石等他に原因があったとしても、本稿の論旨には何の影響も無い。脱線しようとしまいと、直接の原因であろうと無かろうと、自己保身のために乗客を危険にさらした未必の故意に変わりが無く、その結果100名の人命が奪れたのだから

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2005/05/10

■JR西日本事故報道に見る日本人の気質

1.ムードだけで論点不明の報道と評論

この事故は100名を越える死者を出し、未曾有の列車事故となったが、当初の事故報道以来、一貫して不可解な点がある。それは報道や評論における論点が全く不明で恣意的なことだ。

事故現場においては、①先ず人命救助が最優先であり、②次に原因究明し③事故再発防止に努めると共に、④公共利便性の確保すべきであろう。ならば、報道の使命は第1に、公器としてこれらの客観的事実を知らしめる事にあり、第2にそれら事実の解説や評価、第3に対応策の提案となろう。

しかし、一連の報道を見る限り、事実を客観的に報道しているとは到底思えず、ヒステリックで情緒的報道が目に付いた。例えば、最初からJR西日本の幹部を悪者と決め付け、何を言ってもやっても悪く言うのはいかがなものか。

スピードや線路置石説はじめとする原因の報道では、各社が専門家と称する人々とともに無責任な推測をしておきながら、当初JR西日本からの粉砕があったとの報告を、責任逃れでケシカランと言うが、その時点で粉砕痕があり置石の可能性を示唆しただけであり、幹部社員の会見でも断定はしていなかった。

また問題のカーブは時速133kmまでは脱線しないし電車の最高速は120kmまでしか出ないとの説明も、そういう設計であるということである。

どれをとっても至極当然でそれ以上でもそれ以下でもない、客観的事実と設計内容を述べているだけであり、その事実や設計が事実と違っているならば、その間違いを正せばよいことであるはずなのだが、そういう本質的な議論にはならず、JR幹部を吊るし上げようとする姿勢が目立った。冷静に見ればJR西日本側の発表の方が、ヒステリックにわめき散らす報道よりも事実を正確に伝えている。報道や評論の論点は一体何なのだろう。事実を正確に伝え、警鐘を鳴らすと言うよりも、誰かを血祭にしてやろうと血眼になっているようにしか見えない。

2.無責任な原因説

例えば、当初JR西の粉砕痕による置石の可能性ありとの発表に対し、後になってスピード超過による転覆説が有力になると、そら見たことかと非難するが別にJR西日本は置石が原因とは断定していないし、あくまでそれぞれの時点での情報を正確に述べただけである。それに対してニュース番組では鉄道アナリストだの学者、貨物の運転手などが、全く無責任な推理を展開している。

自分達の興味本位で無責任な推測を棚に上げて、重箱の隅をつつくような或いは揚げ足を取るような報道は、見ていて情けなくなる。別にJR西を擁護するわけではなく、マスコミには事実を責任持って客観的に報道してほしいのだ。

曰く、事故の原因は過密ダイヤ、過酷な労働条件、厳格な定時制確保、利益優先の企業体質等々。はたまた最近では車両故障説とか。過密ダイヤというなら首都圏の電車は?過酷な労働条件とは具体的に何だろう、JR西が悪いのは分かりきったこと、事故を起こしているのだから。そんな感情論よりも頼むから具体的に他の鉄道会社の労働条件との違いを報道して欲しい。

問題の区間の手前の区間で、停車駅が増えたにも関わらず到着時間が変わらないことを挙げ、ムリがたたったとする報道にも首を傾げる。事故区間での時短なら分かるが、手前の区間である。いったい何の関係があるというのだろう。

3.ウップン晴らしが目的で、本質はどうでもよい日本人

また、厳格な定時制確保の余り社員にプレッシャーが掛かったと言うが、それがJRの使命であり社員の職務ではないのか、まして人命をあづかる公共交通機関だ、ミスを犯すことにプレッシャーが無いならそっちの方が問題ではないか。受験生にハッパを掛けたり、遅刻生徒を廊下にたたせたらプレッシャーを与えたけしからんと言われるのだろうか。

プレッシャーの与え方が問題とするならそれはJR西日本の労使間の問題であろうし、安全確保に重大な影響があるとすればそれを放置した労組にも重大な責任があるはず。TVでも労組幹部の発言は全く他人事で、自分達がその構成要素となっている組織という認識が全く無い。

にも関わらず、これに何の疑問も呈しない報道を見ると、報道に限らずヒステリックなネット上の議論においても、日本人のほとんどが、原因究明や再発防止に名を借りて、誰かを血祭りに挙げることに夢中であることがわかる。

彼ら日本人には100名を越す犠牲者の事故の教訓など実はどうでも良くて、人命尊重や責任追及に名を借りてうっぷん晴らしをしたいだけなのだ。国土交通省は問題の区間に新型ATSを設置しなければ運転再開を認めないと言うが、そうであるなら他の区間も日本全国すべて新型ATSの無い区間は運行中止すべきである。当該区間だけそのような措置を取るならば、人命尊重よりも懲らしめを優先していることになり、日勤教育批判に矛盾する。何より利用者が不便極まりないだろう。

私には、この一連の本末転倒した報道を見るにつけ、この報道に日本人が何も疑問を抱かないとしたら、彼らの価値判断基準・優先順位がいったい何なのか、全く分からない。おそらく彼ら日本人にとっては天下国家や大事故・災害の教訓や再発防止などよりも最も大事なことは、誰かを血祭にあげての鬱憤晴らしなのだろう。

4.鰯の大群のような日本人

かつて日本には日米安保闘争があったという。あるときその闘争を青春の思い出として語る人がいた。彼に、青春を犠牲にしてまで何故安保条約に反対したのか聞いたところ、その理由はおろか、安保条約そのものを知らなかった。

驚くべきことに彼はムードだけで、自分の青春や人生を掛けた反政府活動を行っていたのである。ムードだけで論点が無いのだ。論点不明のまま彼らは議論をし、目的や到達点が不明のまま集団で行動する鰯の大群、これが日本人の体質なのである。

今回の電車事故に対する日本人の対応にもそれがよく現れている。

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2005/05/02

■人種が違う日本人(その3)

3.洋楽派

日本は開国以来、外国を手本に発展してきた。日本人は、自身を猿真似などと自嘲気味に揶揄するが、それだけ吸収力がスゴイということで、事実わずか100年ちょっとで経済的にも技術的にも世界最先端をいくようになった上、先の大戦で敗北したことも考えると、これは驚嘆すべきことだ。

そんなわけで、彼ら日本人には今もって根強い外国人コンプレックスがるようだ。この場合の外国人とは日本開国の頃の米・欧列強のことで、日本人は東洋人を自分達より下に見ている。

で、これが西洋崇拝に結びつき、音楽の世界でも洋楽派はハイソサエティのイメージがあり、また洋楽を聴くことで憧れの西洋人に少しでも同化できると信じているようだ。このため歌謡曲派がハイソサエティである洋楽派を装うことが多く、このため洋楽派の実態は演歌派と同じく少数派なのだが、見た目は多数派に見える。

大雑把に言えば、洋楽派(に見える人々)とは西洋コンプレックス派といえよう。例えば、親指と小指を立てて黒人っぽい仕草でリズムをとり、同化しようと一生懸命な彼らは、我々ガイジンから見ると悲しいほど滑稽に見えてしまうのだ。

こういうと、サルマネと思われるだろうが、これはあくまで洋楽派を装う歌謡曲派なのだ。真の洋楽派は西洋コンプレックスがあるものの、良いものを取り入れたいという進歩的な面があり、彼らが日本の水準を引き上げ支えている。

しかし実態は少数派であり、洋楽派を装う歌謡曲派も心情的には演歌派だったりするので、彼ら洋楽派は肩身の狭い思いをしており、海外に脱出する人が後を絶たない。しかし日本の今日及び将来を支えているのは彼ら洋楽派なので、このままでは、かつての英国病と同じで日本の活力は確実に衰えていくだろう。

実際、私のオフィスでも、約20パーセントの洋楽派が仕事のほとんどをこなし、あとの80パーセントの社員を養っているというのが実情だ。ついでに言えば、残りの60パーセントは何もしない歌謡曲派で、あとの20パーセントが人の邪魔をする演歌派となっている。

以上述べてきたように、日本人には大別して、演歌派・歌謡曲派・洋楽派の3タイプがあるが、彼らは、姿かたちは同じ日本人であるものの、その実、考え方や価値観、果ては使う言葉さえも違っていて、お互いが全く相容れず完全に別人種なのである。

このことは日本人自身すら気付いていないが、実は日本を理解する上で重要なファクターであり、故に日本にはダブルスタンダード始め様々な矛盾が常に存在し、我々ガイジンには理解しがたい国となっている。何より日本人自身にも理解できないのだ。

例えば、日本人が好んで使う「調和」を例に取ろう。演歌派は「黙ってオレのいうことをきけ」、歌謡曲派は「出る杭は打たれる、とにかく怖い人に従い目立たないようにしよう」、洋楽派は「共通の価値観を見出そう」という意味にとらえているのだ。

このように、言葉一つとっても、言葉はお互い共通の意味を伝えるはずなのだが、日本では人種によって全く違う意味になるので、注意が必要だ。難しいのは、この区別がつかないことで、これは日本人同士でも区別が出来ないようである。

このため、日本においては、言葉がほとんどコミュニケーションツールとして当にならず、仕草や態度など複雑な要素から相手の真意を得ようとする。この結果、言葉や言葉で成り立つ約束がほとんど成り立たなくなるのだ。

驚くべきことは、これらが日本国という共通の社会基盤の上で、その時その時の都合で(ルールや言葉或いは約束の意味が)取捨選択され、決して普遍的な意味を成さないことだ。そして、そのことに誰も疑問をもたないことである。

彼らにとってルールとはそれを守らせる圧力であって、決して理論とか正義といったルール自体の内容ではないのだ。この圧力とは総論としては世間の目のことであり、各論としては暴力、権力、金力がこれを支配しているのだ。

その証拠に、日本ではほぼあらゆる物事の価値判断において、物事の本質よりも、その時点で社会秩序に与える或いは与えた、目に見える直接の影響が重視されている。

例えば、「ケンカ両成敗」「過去は水に流そう」とか「死者を鞭打つな」と言った発想がそれである。ケンカ即ちトラブルの原因に一切目を向けず、形だけその場を納めてしまえば良いのである。他の例も同様、原因究明されないから同じ事が何度でも繰り返されることになり、運不運が世の中を支配してしまう。

この結果、日本人には正義感とか倫理観といったものが無くなり、正義や倫理に見える事が重要となっている。但しこのことは日本の友人に言わせると、戦後の合理主義の悪い点が強調された結果であって、古い日本人はそうではなかったそうだ。

いづれにしても、日本では中絶が極普通に行われていることをとっても、彼らに正義観や倫理観場ないことが理解できるだろう。明らかに新たな生命、それも自己の子孫を、単に体外に出たかどうかという見た目の違いだけで、抹殺できてしまう神経は我々ガイジンには到底理解できないことだ。彼ら日本人には、物事の正邪を自己判断できず、人間としての自然な感情も教えられなければ身に付かないのだ。

従って社会生活においても日本人には約束を守ると言う習慣がない。勿論日本人が全部嘘つきということではないが、本質的に正義感や倫理観が無く、有るように見せるだけであるから、仕事の契約でも何でも、自分が損する場合、強制されない限り約束を守る人は非常に稀である。

だから、日本人はミズクサイ等と言って約束を文書にすることを嫌う。日本でのビジネスではこのことを肝に銘じておく必要が有る。さもないと最後は必ずトラブルになるだろう。日本においては間違っても成功報酬で仕事をしてはいけない。約束通りの成果を出した時に、罰せられない限り約束通りの報酬を払うクライアントは、日本人にはいないからである。

日本には「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言う諺が有るように、日本人は困った時には何でも約束するが、後になるとすっかり忘れてしまい、各論を組み合わせて正当化したり、何時まで過去のことを言うのか、などと平気で言うのでくれぐれも注意が必要である。

そして何より厄介なことは、こちらが幾ら約束が違うと言っても、彼らは一向に態度を改めないことだ。このため、日本人に約束を守らせるには、力で報復を知らせない限り彼らの正義感などに期待しても全くムダである。

このことは国家レベルにおいても行われていることでも明らかである。例えば、真珠湾の奇襲攻撃について、最近の日本ではアメリカが知っていてわざと容認したといった事が言われているが、だとしたら正式に国家間で議論すれば良いし、仮にそうだとしてだから何だと言うのだろうか。或いはここのところ盛んな中朝の抗日運動にしても、日本は償いが終わったとしているが、双方で明文化していないではないか。またA級戦犯合祀の靖国問題では、内政干渉であるとしているが、それならば、1951年のサンフランシスコ平和条約で戦犯を認めたことをどう説明するのだろうか。時間がたてば水に流すと言うのは、日本人だけに通じる理屈であり、時間の経過は事実に何の影響も無いことを日本人は理解すべきである。

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