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2005/10/25

靖国派の実態は?

たまたま、一昨日、地域の趣味的活動の集まりがあって、夜、打ち上げをしていた。そのメンバーは10名程度で、酒が進むうち、どういうわけか政治問題はご法度のはずだったが、誰言うとなく、小泉首相の靖国参拝が話題となった。

で、そこでの一致した意見は、国家神道が廃止され思想信条・信教の自由が憲法に謳われてるのだから、首相の靖国神社参拝はおかしい。英霊を追悼する無宗派の追悼施設を何故造らないのか、というもの。

誰かの、靖国神社はどうするのかとの問いに、皆、それは靖国神社の問題であり、靖国神社が好きにすればよいと。また、憲法9条についても、交戦権を認めるべき、その代わり侵略しないよう領土拡大禁止を憲法に謳うべきとも。普段、私がこのブログ主張している通りのことを皆が言うので驚いた。

彼らは、私がこんなブログをやっていることなど知らないし、そこでは一切政治や思想的なことをこれまで話したことも無いので、正直、これはどういうことかと思い、世間では靖国神社を絶対視して、俺が信じるからお前も式に、問答無用という人がかなり大勢を占めているような印象だが、ここにはそういう人が居ないのか、と問うたところ、誰もが自分はそうではないし、会社でもそんな人は居ないと思うとの答え。

これはどういうことだろう、実際、私の周りでも公私に渡り靖国派はほとんど居ないので、薄々そうではないかとは思っていたが、実際のところ靖国派というのはそんなにいないではないだろうか。

一般の靖国神社参拝者も、たまたまそこに身内が英霊として祀られているからで、多くは別に神道というわけではなく風習として参拝しているのではあるまいか。そして何か儀式が必要なので、たまたま神道の儀式が古来からあるので、うん、何だか分からないが伝統的だから、まあこれでいいだろうと、そんな気がする。

右翼が天皇陛下万歳、靖国絶対と言うのも、実はほとんどの右翼と称する人々は天皇陛下個人や宗教施設としての靖国神社にそれ程の思い入れは実はなくて、それを唱えれば単に横暴が許されるからではあるまいか。

ある戦中派の元陸軍中尉だった俳優が、「靖国で会おうなんてのはウソだ、誰もそんなんで死んではいないよ。」と言っていたが、アレが本当だろう。靖国派と目される人々の実態はトンと分からないが、なんとなく右翼の声が大きいし、選挙の票になりそうなので、政治家も靖国派を標榜しているが、実態はハリコの虎なんじゃなかろうか?

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2005/10/19

怪猫事件の怪

猫が寝たきり老人の足指を食ったと言う。コレに対し愛護団体が猫にはそんな習性が無いから再調査を要求しているとか。

http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20051018/eve_____sya_____003.shtml

http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20051015/K2005101501380.html

さて、この愛護団体は何を目的とし何を訴えたいのだろうか、考えられる処を挙げると、①猫一般の名誉回復、②その猫の救命、といったところか。どうも他には思い浮かばない。で、もし猫が人を食うと思われたらイカンと言うのは、まあ愛護団体としてみたら当然に危惧するだろう事は理解できる。

しかし、犯人と目される中庭にいた猫は2週間もエサを食ってなくて(ホンマかいな?これも怪しいが)口の周りを血に染めていたとか。で、この猫が犯人ではないとするなら、その証拠つまり特定の証拠に対する判断を否定するに足りる理由、つまり特殊解を述べるべきだろう。なのに愛護団体は、一般論の猫の習性を持って対抗しようとしているが、チト無理があるな。

例えば、人は人を食う習慣も習性もないが、アンデスの正餐のように極限状態では起こりうる。まして猫は動物だ、この猫が極限状態にあって、寝たきり老人がいて、口を血に染めていたとなれば、この点を否定しなければ、猫が食っていないとは言えまい。と言うわけで、猫の無罪獲得はペケ。単に一般論としての猫の名誉が目的なら、もともとそんなことは議論されていないから、まあマッチポンプの類だろう。

次に、この猫は本来ならば3日以内に買主が現れなければ処分される。だったら、くだんの愛護団体が、猫を引き取れば、猫の命は救われ、それで解決する。一方、警察は疑いがあるとしながらも、猫を犯人とは断定せずに、捜査を打ち切ったとか。

要するに、この怪猫事件、いかにも日本的な論点不明の騒動と言えよう。被害にあった老人のことなど端から誰も問題にしておらず、事実と無関係に夫々の都合だけで言いたいことを言っているに過ぎない。コレこそ怪なり、だ。

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2005/10/15

郵政民営化反対論の論理矛盾

日本人は真理とか論理に非常に無頓着な国民だ。恐らく長らく島国として外敵との接触が無かったからかもしれない。日本人の議論は議論ではなく、常に先に結論があり、議論と称して言葉の応酬はするけれど、実際には真理追求などどうでもよくて、発言内容ではなく発言者の上下関係や地位で議論は決まってしまうからです。

だから、お互いが対等若しくは自分が上だとアピールしたい者同士のTVの討論では大声でがなりたてて、お互い相手のいう事を聞くことはまずない。彼らは生まれてこの方、議論の習慣がないからなのです。このため日本人同士の議論では、持論を自ら否定するような矛盾した論拠を平然と言い張って一向に自己矛盾に気が付かないことが多い。

困るのは、それが公の場でもまかり通ってしまうことです。で、そんな調子で海外で何か主張すると赤っ恥をかいたりします。例えば昔、核廃棄物を南の海に沈めようとしたとき、きちんと処理しているから安全だと日本は主張しましたが、その国から、あっそう、そんなに安全なら自分の海に沈めたら?と言い返されてギャフンとなってしまいました。

核を海外に捨てようとした人たちは、どこか心の奥では、南の国を後進国として低く見ていたのでしょう、だから自分の言い分が通ると、間抜けな理屈を平然と持ち出したのではないでしょうか。国内では上下関係で意見が通っても、世界には通じません。

ホント、日本では、こういう自己矛盾を平然と言い放つ議論が多い。最近では郵政民営化反対論がその良い例でしょう。彼らが何故反対なのかは非常に分かりにくいのですが、中でも「郵政事業は特別会計だから民営化しても意味がない」との主張、コレは噴飯モノです。

南の島の酋長じゃないけれども、だったら民営化しても同じなんだから良いじゃないの、でオワリです。民営化すると過疎地のサービスが無くなるというのも自己矛盾、特別会計で成り立ってるんだから、民営化後も法律で過疎地サービスを義務付ければ済む話だし、仮にそれで経営が破綻し、それが経営者の問題ではなく制度の問題だとするなら、全ての事業を国営したほうが良いことになります。

こんな風に、サービスが低下すると言われると、中身を考えず単語に反応して、一般市民がホイホイ乗せられてしまうのも困ったものです。そもそも、こういう議論は、実際のところ正義感とか論理でなされているのではなく、利権やしがらみから来ていることは、みんな分かっているのに、何故あんなにみんなで議論するのかホントに不思議です。

何より与党側で、民営化に反対していた議員がこの国会で賛成派に転じたこと自体が、反対に論理的根拠や確たる信念が無く、しがらみと欲得であったことの証明ではありませんか。こんな具合に日本では、主張自体にお互いの関係性を重視し反論が無いことを前提にしていて、論理的には簡単に論破でき、さらに自らの言動が不当性を証明してしまう主張が非常に多い。これは日常生活においても頻繁に目にします。

「絶対」とか「保障します」とかがソレ。私の言うとおりにすれば、絶対成功します→じゃ失敗したら○○と書いてなどというと、間違いなく怒り出し信頼関係を壊します。でもそれで壊れるなんて元々ありもしない信頼なんですが、なかなかそこに気が付かないのです。本当のことは薄々気が付いているけれども、表面上は波風立てたくない、このままでは手遅れになるけれど医者に行くと病気と分かるから治療しない。みな本当のことより、かりそめの平穏を選びます。昔一億総白痴化と言われましたが、一億総かりそめ化現象とでも言っておきましょう。

ま、それにしてもニッポンのみなさん、アホなマスコミ報道やミエミエの論議には簡単に乗せられないよう気をつけたら?

日本にはマッチ・ポンプと言う言葉がありますが、どうでも良いことや、分かりきった議論に載せられて、国民全体がマッチ・ポンプに翻弄されないよう祈るばかりです。

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2005/10/11

サルには分からない憲法改正

またもや東シナ海が騒がしくなってきました。ついに中国はガス田生産に入り、このため、問題の海域には中国の軍艦がすでに遊弋(ゆうよく)しており、日本と不測の衝突が発生する可能性も指摘されています、そうなれば深刻な外交問題を招き、すでに両国内で高まっているナショナリズムの感情を煽ることにもなりかねないでしょう。

それにしても、ここで不思議なのは、全く日本国民が一向に、この問題に関心を示さないことです。マスコミも取り上げてはいるが、国家の一大事と言うほどではない。イスラエルでは毎日が戦争状態、領土が侵されようものなら総攻撃するし、そんなこと世界中の常識、どこの国だって領土・領海が侵犯されたなら、即戦争になります。

国境付近にトンネルを掘り、隣国の石油を掘ったらイスラエルやアラブに限らず戦争は必至です。なのに東シナ海では、堂々と日本側の資源が盗掘されようとしている。国家国民の最優先事項は普通、領土問題ですから。ために古今東西戦争が起こって来たのです。ところが、この国ではアメリカのイラク攻撃や自衛隊のイラク派遣ではデモが起きるのに、自国が侵犯されようというのに、全く無関心だ。一体どうなっているのだろう?

イラク戦争反対デモでは、人々は兎に角戦争に反対だと言っていましたが、自国が侵略されることには無関心らしい。私は日本人を愛する故に、サルと呼び、怒らせて警鐘を鳴らそうとしてきましたが、どうやら日本人は全てサルらしい。目の前で、自分を叩く棒が準備され、オリが用意されていても、叩かれるまで気が付かないし、叩かれても、叩いた人間より、叩かれた棒に怒りをぶつけるから、実際に侵略されても、それを許してしまう国家システム、即ち憲法には考えが行き着かないのでしょう。

結局、この期に及んでも、或いは日本が目に見える形で侵略されても、ただただ、バカの一つ覚えで「戦争反対」「平和憲法を守ろう」と言いつづけるのでしょうか。「戦争反対、平和憲法を守ろう」は間違いではありませんが、コレは目標であって方法ではない。相手がいることなのだから、どうやったら戦争が無く、平和を保てるか、その方法を考えなければ、タダのヒステリーです。

憲法9条は武力と平和がトレードオフであるかの前提のようですが、もしそうなら警察官が何故銃を持っているか、これを考えれば直ぐ間違いに気付くはずです。加えて9条2項で交戦権を自ら放棄しておいて、自衛隊武力を備えても、意味不明といわざるを得ない。だって、警官が発砲していけないと規定されていたら、犯罪者は屁とも思わないでしょう、それと同じです。問題は武力(の行使)即ち戦争がいけないのではなく、し方の問題なんです。

だから、以前にも書いたように、本当に平和憲法とするなら、戦争や軍隊を放棄するのではなく、侵略即ち領土拡大を放棄すべきなのです。勿論コレで平和が絶対とはいえないが、少なくとも相手があることなのだから、絶対戦いませんと言うより、絶対攻めないが、やられたらやり返すぞと言う方が平和である事は間違いありません。現に、国民が自国で他国に拉致されたり、竹島問題やかつての金大中事件など、全く日本は舐められっぱなしではありませんか。

だから、今日本がなすべき優先順位は、第一に憲法改正しかない。国がなくなってからでは、体制も経済も無いのです。ユダヤ人は長いこと国を持たず、やっと大戦後のドサクサで建国したけれど、今日に至るまで常に血を流しつづけてきました。日本は有史以来島国故に、外敵から守られ、ほとんど戦うことなく国家を維持してきたので、島国根性ばかりが発達し、仲間内の足の引っ張り合いばかりで、国家の維持に全く無頓着なんでしょうが、ユダヤの民から見れば、羨ましいかぎりではあるものの、こいつら先が無いなと思ってしまうのです。

追記:念の為本稿の主旨を整理しておきます

          本稿では戦争をすべきとは言っていません。戦争反対平和賛成、但しそのためには憲法改正が最優先事項と言っています。

          改正では、「戦争放棄ではなく侵略放棄とし、自衛のための武力行使はするが侵略すなわち領土拡大をしない」が私の主張。

          本稿では春曉ガス田問題を例に挙げて憲法問題を論じてますが、春曉ガス田で強行姿勢をとれという意味ではなく、協働開発がベストなのは言うまでもありません。

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2005/10/08

吉野家って日本文化?

newmenu_ph07 アメリカから牛肉輸入が再開されるとか。何でも全頭検査の必要が無いらしい。アメリカの問題だからそれならそれで構わないから、日本向けの牛は日本のやり方に従って欲しい。だって日本に輸出するんだから、輸入するかどうかは日本人の判断であるはず。

但し、コレは左ハンドルの車の輸入と同じで、経済がグローバル化した現在では、非関税障壁と言われるかもしれない。だったらアメリカ産牛肉を輸入したにしても、少なくとも国産牛は全頭検査を継続してもらいたい。まあ、そんなことは無いだろうとは思いますが、間違ってもアメリカの基準に合わせるようであれば、国産車も全て左ハンドルにしなさいと言うようなもので、内政干渉です。

で、そうなると輸入牛肉を食うか、国産を食うかは国民一人一人の自己責任だろう。別にアメリカ産牛肉を輸入したからと言って私は買わないからどの道無関係、これで私の中では整理がついており、どうでも良いように思える。輸入したければ輸入し、売りたければ売ればよい。危険性を判断し買う買わないは消費者が決めることではないだろうか。

その結果、売れなければ、撤退する。それだけの話だ。話をややこしくするのは、何かあった時そこで直ぐ政府を槍玉にするからだろう。左ハンドル車で事故を起こしたのは国のせいだとは言わないだろうから、コレと同じという事を明らかにしておけばよいと思う。(けど、ダメだろうなあ)

で、このアメリカ産牛肉問題になるといつも不思議なのが、吉野家に対するマスコミの扱い。輸入禁止になると、まるで何か文化遺産が失われるかのように行列ができたり、そもそもアメリカ牛を使わなければならない理由なんてどこにもなくて、単に吉野家の経営戦略の問題なのに、そこに乗せられてTVのインタビューに答えてる人間は、バカ丸出しに見える。

そんなに牛丼が好きなら、少々高くても良いから国産牛の牛丼をつくればよいではないか。吉野家の牛丼を食わなければ、死ぬわけじゃあるまいし、それが日本の文化でもない。たかがファーストフードの1銘柄の経営問題なのだ。バッカじゃねーの。

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2005/10/06

環境運動

tubaru ←(ツバルのある島の様子。この島には9本の椰子の木しか残されていない。椰子などの根は、波から砂の流失を防ぎ島を守っているが、これだけ小さくなってしまうと守りきれず、水没してしまう島だと言われている。)

今年2月に京都議定書が発行しました。これは、2008年~2012年の間に、温室効果ガスの排出量を、1990年のレベルより全体で5%以上削減すると言うもので、日本は6%の削減約束をしています。

一方、この間に大気中の温室効果ガス濃度は8%増加(2003年速報値)してしまいましたので、実際は全体で14%削減する必要があります。議長国であるニッポンの対応はまさに待ったなしの状況です。

ところが、我々市民生活では、なかなかこれが実感できませんし、会社においても同じでしょう。ISO14000Sの認証取得組織でも、実態は審査の事務手続きに追われ、形式だけの対応と言うのが実際のところと思われます。

では国の対応はどうかと言うと、これが珍しくキッチリやってるんですね。かなり早い段階から環境基本法始め個別具体にはリサイクル関係等様々な法体系が整備されています。最近では、今春の国会で成立した物流効率化新法などのように、環境を錦の御旗に既得権益や土地規制から治外法権化する動きさえ見られます。

例えば、この物流効率化新法制定の趣旨には、ボランティアに頼っていてはCO2削減が追いつかないと言う点が掲げられています。このことに象徴されるように、我が国の温暖化防止活動は非情に実態が伴わないと言うのが私の感想です。環境問題の取り組みに関する限り、国民よりも国が一番真面目に考えているなあということです。

実際の市民活動を見ると、環境問題を掲げる市民活動団体やNPOはゴマンといますが、実際に実効的な活動をしている組織は殆どありませんし、その各個人も同じです。何よりも、彼らの知識不足にはあきれてしまうことが少なくありません。

極一握りの学者がリーダーシップを取っているだけで、活動家と称する人々は驚く程知識レベルが狭くて低いのです。だからかどうか分かりませんが、何か目立つ事業の環境アセスメントに猛反対したり、ビオトープを造ったりといった比較的象徴的で目立つ活動には熱心です。

勿論それが悪いと言うわけではありません、やらないよりは良いのですから。そのことだけ見ればそのとおりですが、そういった活動をしている個々人を見たとき、一人一人の行動の一端にその人となりが垣間見え、そこから個人の活動をトータルで推測した時、果たしてどれほどの効果があるのか疑問を感じてしまうのです。

ある街に元一流新聞の記者と言う方が、環境運動のリーダーとして君臨し、グループを形成しています。彼らは沼地にいもしない蛍を養殖し、そのことを強くアピールしています。しかしこれが生態系に本当に良いのかは検証されていません。蛍というだけで全てOKなのでしょう。

同じ沼にコツコツとソーラー発電で水質浄化のための噴水装置をつけたグループは、何故か彼らに目の敵にされています。しかしこの両者の活動はトレードオフの関係ではありません。少なくとも水質浄化が環境に悪いとは思えないので、同じ環境活動をしていながら、水質浄化グループを排除する理由が分かりません。件の元記者さん達は本当に環境問題に取り組もうとしているのか、はなはだ疑問で、知的さを装ってはいるものの、本質は単語に反応する日本人そのものなのです。

そんな訳で、環境問題、特に地球温暖化に関しては、単なる自己満足や自己PR或いはフラストレーション発散の道具にして欲しくないなあと思う次第。となると、先ずは環境教育や正しい知識の重要性に気付いて欲しいのです。

何のための環境保全か、何が原因でどう環境がおかしくなっているのか分からなければ、活動できるはずがありませんよね。ちなみに、全国地球温暖化防止センターでは、「青い地球の物語」始め様々な環境教育用パンフや資料をを配っていてこちらからもダウンロードできますので、皆様こんなところから始めてみてはいかがでしょうか。

http://www.jccca.org/

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2005/10/05

日本のタブー

日本人のダブルスタンダード、ご都合主義は、既に何度か述べました。この摩訶不思議な現象は、山本七平著「空気の研究」に詳しいが、読んで尚分かりにくい点もあります。そこで、今日は分かりやすく日本のタブーについて書きましょう。そこから日本を支配する空気が見えてくると思うのです。

タブーその1:天皇の位置付けと責任

右翼は天皇陛下を絶対視します。山本七平言うところの、相対或いは対立する概念不在の、絶対的臨在観です。絶対的存在ですから、尊敬以外の会話はありえず、それ以外は全て不敬となります。理屈は全く入る余地が無く、神そのものです。

しかし、この根底にあるのは、天皇に対する絶対的尊敬の念ではなく、トラの威を借るところにあるように思います。少しでも天皇批判に結びつきそうなことがあれば、目を三角にして、襲い掛かりますが、その根底にあるのは、皇室に対する敬意と言うより、権威に同化し、コレ幸いに他人をやっつけているに過ぎません。

右翼に好かれても、当の天皇陛下は迷惑なだけなんじゃないんでしょうか。子供の頃から不思議だったのですが、日本では何か事件が起こると、何でもかんでも長の責任になります。運転手がミスを怒られるのが怖くてスピードを出しすぎて大列車事故を起こしても、当の運転手よりも、実際どうにも出来得ない社長の責任を追及します。

社長が就任する以前のことでも、結果が今なら今の社長の責任を追及します。これは実際の責任の所在など実は、どうでも良くて誰かを血祭りに上げれば満足だからです。或いは長がタダのお飾りでも、責任を追及します。

ところが、大日本帝国憲法の下では陸海全ての軍の最高責任者であった天皇の戦争責任は追及されません。実際問題、天皇に責任があったとは思いにくいのですが、しかし何故ここだけ急に現実的で物分りがよくなるのでしょうか。

あなたがもし業務上不祥事を起こしたならば、上司はおろか、あなたのことをどこのどなたかも知らない社長の責任になるでしょう?なのに何故、天皇の戦争責任となるとこうなんでしょう。よく言われるのが、天皇に戦争責任を負わせてしまうと日本人に求心力が無くなってしまうというもの。

しかし、私の見る限り、実生活において日本人がそれほど皇室に敬意を払っているようには見えません。右翼がどこにいるか分からないので、不特定多数の前では皆さん敬意を払ったかのような発言をしますが、一度仲間内の会話になると必ずしもそうではないようです。

そして、極稀に天皇陛下にたいして敬意が足りないと怒り出す人がいますが、尊敬する人への気持ちの表れと言うよりも、先に述べたようにトラの威を借りるがごとく、権威の威光をかさにうっぷん晴らしをしているに過ぎません。もしマッカーサーの占領政策が継続していたなら、占領軍の威光をかさにきて傍若無人に振舞うのではないでしょうか。そう思えてならないのです

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2005/10/01

靖国派と日本人のズルさ

私はこのブログで一貫して、「靖国神社を否定しない。何を信じようとそのひとの勝手だから、その代わり強制されたくも無い。」と言って来ました。コレは基本的なものの考え方であり、靖国問題であろうと、歴史観であろうと、或いはオウムでも何であっても同じ、たまたま対象が宗教法人としての靖国神社であるだけなのです。

で、いつもこの靖国神社関係の問題になると、所謂靖国派の人々は何故にああも論理矛盾に無頓着な強弁を繰り返すのかが不思議でなりません。幾つかの決まったパターンを具体例を挙げましょう。念の為言いますが、コレは靖国派の論理に対して批判しているであって、靖国神社を対象にはしていません。(ついでに言えばコレだけハッキリ前提を明言していても理解できない人がいて、この後必ず論点のずれたヒステリックな反論が寄せられることを予告しておきます)

①靖国は日本の伝統的風習、日本人の心だ。靖国は寛容だ。
→そう思うのは勝手、他人もそう思うべきなら、ルールとして法で明確にすべき。でなければ、そう思わないのも勝手で、憲法で保障されている。
→寛容なら、分祀に応じればよい。別に他宗教を受け入れなくても良いから、靖国神社以外の思想信条を信じることも認めれば?お互い自由ではいけないの?

②だから靖国は宗教ではない。
→宗教法人でなければそういうのもアリですが、宗教法人である以上解釈の問題ではありません。

③合祀されれば皆同じ、分祀は教義に反する。国家と言えども応じられないし、外国から言われる筋合いではない。
→まったくそのとおりで、内容に賛否両論あろうが、どう考えようがその宗教の勝手、外国から言われる筋合いもない。ただし国家神道ではないのだから、祀られるか否かは個人(故人)の意思が優先するはず。

④靖国で会おうといって皆死んでいったのだから、靖国が戦没者の追悼施設、他は要らない。
→この論理は子供だまし、なぜなら靖国が国民の総意だから他は不要と言っているが、総意なら、そもそも靖国問題は起こらない。問題になっていることが既に総意ではない。仮に時の経過がそうさせたと言うなら、今現在総意ではないことであり、現在において追悼施設を造ることに反対できないはず。

とまあ、こんなところでしょうか。論理展開の流れから以上の順に書きましたが。ポイントは②の宗教法人であることです。そして日本国憲法では思想信条・信教の自由を保障していること。この2点から全て論破されてしまうのです。

靖国派は、この2点の矛盾点に対しては、全く答えず、以上①~④を個別に主張しますが、他から見ればご都合主義で日本人のズルさの証明にしか見えません。結論が先にあって、時には宗教法人、時には風習と都合よく前提を変えてしまい論理に一貫性が無いからです。ただし、当の本人はそうは思ってないかもしれません、本気で部分部分でしかものを考えず、全体観がまったく欠落している場合、こういう指摘自体が理解の範囲を超えているかも知れないからです。

何度も言うように、私は靖国神社を否定するものではありません、あくまで一宗教法人として中でどう考えどのような教義であろうと靖国神社及びその信者の勝手です。しかし寛容というなら、嫌だと言うものに強制はないでしょう。合祀したら分祀出来ないなど、ヤクザじゃあるまいに。靖国神社に行けなくなるならともかく、別に追悼施設を造るのはケシカランというのも同じ。

自分だけが正しくて、他人もそれに従えという考え方なのです。だとしたら、憲法を変えて国家神道とするとか、宗教法人ではなくNPOとするとか、少なくとも、良し悪しは別にして論理くらい整理して欲しいものです。もし日本人にルールを守る習慣があるならそうすべきです。無ければ、力関係でモノが決まるので、議論やルールは無意味となることは言うまでもありません。結局のところ日本はそういう国なんでしょうか?

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