日本語の怪
昔から日本を指して、東洋の神秘なんて言われているが、ホント日本は不思議だ。
先ず、単語として全く違う意味を、同じ言語体系で持ってたり、意味不明の言葉って、日本語ぐらいじゃないだろうか。例えば、・・・・
緑の黒髪:これを聞いたとき、は?でしたね。ミドリイロノクロってどんな色?ニホンジンふつーに使っているが、やっぱり変だ。そういえば、信号機も緑なのに青と言ってるな。青は実は緑で、緑も実は黒?ふーむ分からん。もしかしたらミドリちゃんの黒髪? なんて考えると妙にうきうきするが・・・、やっぱり分からんナ。
走って歩く:この言葉は、埼玉県の旧岩槻市(今のさいたま市岩槻区)あたりの方言かもしれない。最初聞いたときはギョッとなったが、要するにせわしなく走り回っている様子を言うらしい。が、同時には成立し得ない相反する行動を一つの熟語にしちゃうところは、緑の黒髪以上にスゲーというかテキトーだ。「走って泳ぐ」とか「泳いで歩く」なんてのもあるのだろうか、もしかしたら「立って座る」とか?ニホンジンてスゴイと思った。
きっと:この言葉、本来は「確かに」と言う意味なんだろうが、実際は「タブン」の意味で「メイビー」とか「パハップス」だ。言葉としてはほとんど反対の意味を持ってるところがすごい。「彼はきっと約束を守ります」と言ったら、「守らないだろう」とも、「守るだろう」とも受け取れるのだ。頼むよ。
ケッコウ:これもそう。OKとNO、両方の意味だ、たまらんなー、もう。「埴輪の2006年モデルいかがでしょうか」「ケッコウ」「お買い上げありがとうございます、消費税込みいちまんごひゃくえんデス」「なに!要らんといっただろ」こういうバトルは日本だけ。
意味不明な言葉:その他意味不明な言葉がいっぱい。凛とかケレンという言葉も良く分からない、あと、前にも書いたが、日本語の「数」って全く意味が無いようだ。数人とか、数時間と言うアレです。ついでに言うとこのアレもよく分からないな。「数」を辞書で引くと、「2・3、3・4或いは5・6若しくは7・8かそれ以上」なんて書いてあって、もう無茶苦茶。「数ヶ月以内にはきっと約束を果たします」なんていわれてもなあ。「9ヶ月以内のいつか、ひょっとしたら約束を実行しましょ」ってか
?
よく事件がある度聞くのが、道義的、これもよく分からない、「道義的責任を・・・」とか言って、TVでエライ人がよく御免なさいしてるけど、実際のところ何人の日本人が分かっているのだろう。
他にもいっぱい分からない言葉や意味不明な言葉があるが、言葉とは本来意思伝達を目的とするコミュニケーションツールなのに、何故に日本語はこんなに曖昧で、本来の目的に反しているのだろうか。それどころか言葉の意味が誰にも分かると、差別用語となって、意味は全く同じなのに別の分かりにくい言い方に変えられたりする。
どうやら、日本語は分かりにくくなければいけないらしい。ではどうやって日本人はコミュニケーションをとるのだろう、テレパシーなんだろうか。それとももともとそんな事を必要としていないのかもしれない。
そう言えば、一連の構造計算書偽造事件では、「鉄筋本数減らせ」イコール「偽造しろ」か「経済設計」なのか、全く定義付けしないで、鉄筋本数がどうたらこうたら言っているが、議論の対象をはっきりさせると、日本人には面白くないのかもしれない。お互いが同じ言葉を使っているが、実は正反対の事を主張しあっていて、「走って歩いた」り、「きっと」、「けっこう」な議論をしているのだろう。
だからそのうち、何を言ってるのかお互い分かんなくなっちゃって、飽きてしまい、嵐が去っていくのだろう。残された人は、たいへんだけど・・・・。
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コメント
まあ日本人は脳みそが萎縮した人類のカスだから。大陸の残りカスが寄せ集まって日本人になったから。
投稿: ななし | 2010/03/24 00:39
あまりにも遅いコメントですが、私の意見を書いておきます。
「~歩く」は「~して歩く」が原型だと考えます。
これは歩行を指しているのではありません。
~に行為が入り、それをあちこちで実行して回るという事です。
曖昧ではありますが、殆どは文脈で判断出来ます。
例を挙げます。
「そんな外出する度にモノ落として歩いてたら」
これはいつも落し物をするという意味で、歩行の意味はありません。
「そんな、だらしない格好して歩いて」
歩行の意味に聞こえますが、何処でもだらしない格好でいる、という意味です。
この場合、その事が非難されています。私はよく耳にします。
たとえ、だらしない格好をしたのが一回だけでも、注意の意味で使われる事があります。
「そんな、いつも銃持って歩いてたら」
これはどちらとも取れますが、殆どが、いつも銃を持っている、という意味です。
銃を持ち、なおかつ歩行している状態が話題ならば、歩行の意味で考えるべきです。
そんな事はまずありませんけれど。
また、「~して歩く」のこういった使い方をする場合、接続詞を省く傾向があるようです。
「財布落として歩いて」財布を、では無いことが多い。
「だらしない格好して歩いて」格好を、では無いことが多い。
(↑これは経験談なので、地域性もあるかもしれません。)
そして、これらの表現は、まず間違い無く非難する意味で使われます。
更に言うと、この表現は丁寧な表現ではありません。
「走って歩いて」では、歩行では意味が矛盾します。
つまり、『どこでも(いつでも)走り回って』、という意味です。
長くなってしまいましたが、参考になれば幸いです。
投稿: しとね | 2006/12/12 00:55
匿名希望さま、コメントありがとうございます。作者は最近、超多忙なため、更新さぼり気味ですが、宜しくお願いいたします。
投稿: イザヨ・ベンダソン | 2006/01/09 23:22
夕べふと思ったのですが、緑の黒髪ですが、、、、
10年ほど前、ちょうど髪の毛のカラーリングが流行り始めたころ、クラスの女の子達は「茶髪」というものにすごく憧れていました。かなり真面目な学校でしたので髪の毛を染める事はできないし、校則を破ってまで茶髪にしてくる子はいませんでした。染める事はできないけど茶髪には憧れる、、、その中で女の子達は自分達の黒髪が茶色ぽっいとか、茶色に見えないとか言っていました。中には日本人であっても生まれつき黒髪なんだけど、こげ茶色に見える色の子がいました。私の髪も僅かに茶色に見えるらしく女の子達に「いいなー」と言われました。自分でも光にあたるとこげ茶色に見ようと思えば見れると思います。が、正確にいうと私の毛髪は細くて薄い黒です。黒が濃くないので光りに反射しやすく太陽の光にあたった時に茶色に見えやすくなるんだと思います。ここで本題にかえりますが、こういう状況を「黒いけど茶色」つまり「茶色の黒髪」と女の子達は思っていたんだと思います。今だと染めて「茶髪」で通りますが、染める選択肢のない状況では「茶色の黒髪」に見えるのが理想だったのです。緑の黒髪もこれと同じで、和服を着ていて欧米思考がなかった日本では茶色は合わないので、髪の毛は黒で光に当てたりすると緑に見えるのが理想だったのでしょう。日本人のことですから苔とか藻の色を毛髪の色に重ねようとしたのではないかと思います。もし当時に髪の毛のカラーリングがあれば、「緑の黒髪」という言葉は生まれず、緑髪という単語で終っていたと思います。私は「緑の黒髪」は緑に見えたい黒髪の人達の願望が形になった言葉だと思います。
投稿: 匿名希望 | 2005/12/27 10:34
「走って歩く」「きっと」「ケッコウ」の3つですが、私はこういう風に判断します。
「走って歩く」、、、走って歩くの言葉を私はマラソンのイメージに置き換えます。何故ならマラソンのとき走っていて疲れたら走れないから歩きます。目的地に進まなければいけないので止まれない、でも疲れて走れないからとりあえず歩く、でちょっと体力が回復したらまた走りだす、、、こんなニュアンスで使います。基本は走るけど疲れたときは歩きますよ、歩いても決して走る意欲がないわけではありませんという意味です。
「きっと」、、、たぶんときっとの違いは、「きっと」の場合は期待を込めて使い、「たぶん」は期待の気持が無くとりあえず漠然と予想を考える時に使います。例をだすと「きっと買ってくれると思う」は買ってほしいという期待が入っているけど、「たぶん買ってくれるだろう」には別に買ってくれても買ってくれなくてもいいけどもらえるものはもらっておこうという期待のない言い方。
「ケッコウ」、、、これは誉め言葉ですね。ポイントはこの言葉の前後にどんな単語がくるかで、誉め方のレベルが違ってくるということです。断る時の「ケッコウです」は、良いという価値そのものは認めるけど、それを自分が所持したいとは思わないという意味で使います。断りながら相手の価値を損ねないようにする時に使われると思います。つまり「良い(ケッコウ)です、しかしいりません」の、しかしいりませんを省略した形だと思えばいいと思います。誉めてるだけと誉めてそれなりの報酬をくれるかの違いです。断っても相手の機嫌を損ねないように誉めてごまかすところから始まったと考えています。
以上は私の勝手なイメージが入っていますが、私はマジでそう考えています。最近私が意味が解らないと感じた言葉を一つあげると、偽造問題ででてくる「日本は性善説」という言葉。あれを聞くたび性善説の意味が分かって使っているのかという気持になる。日本はどう考えても性悪説でしょう。仕事をする為には住所がないといけないし、仕事が無ければ家を借りる事もできないし、あらゆるところで保証人がいないといけなかったり、サインより印鑑が幅をきかせていたり、人を疑いまくるシステムがはり巡らされていて、それなのに性善説だと解釈する日本人はいかがなものか。日本は見かけがそれなりの人である場合のみ性善説、見かけが一般的な水準でなければ性悪説で判断している。これは性善説とは言わない。
投稿: 匿名希望 | 2005/12/26 15:10
「走って歩く」「きっと」「ケッコウ」の3つですが、私はこういう風に判断します。
「走って歩く」、、、走って歩くの言葉を私はマラソンのイメージに置き換えます。何故ならマラソンのとき走っていて疲れたら走れないから歩きます。目的地に進まなければいけないので止まれない、でも疲れて走れないからとりあえず歩く、でちょっと体力が回復したらまた走りだす、、、こんなニュアンスで使います。基本は走るけど疲れたときは歩きますよ、歩いても決して走る意欲がないわけではありませんという意味です。
「きっと」、、、たぶんときっとの違いは、「きっと」の場合は期待を込めて使い、「たぶん」は期待の気持が無くとりあえず漠然と予想を考える時に使います。例をだすと「きっと買ってくれると思う」は買ってほしいという期待が入っているけど、「たぶん買ってくれるだろう」には別に買ってくれても買ってくれなくてもいいけどもらえるものはもらっておこうという期待のない言い方。
「ケッコウ」、、、これは誉め言葉ですね。ポイントはこの言葉の前後にどんな単語がくるかで、誉め方のレベルが違ってくるということです。断る時の「ケッコウです」は、良いという価値そのものは認めるけど、それを自分が所持したいとは思わないという意味で使います。断りながら相手の価値を損ねないようにする時に使われると思います。つまり「良い(ケッコウ)です、しかしいりません」の、しかしいりませんを省略した形だと思えばいいと思います。誉めてるだけと誉めてそれなりの報酬をくれるかの違いです。断っても相手の機嫌を損ねないように誉めてごまかすところから始まったと考えています。
以上は私の勝手なイメージが入っていますが、私はマジでそう考えています。最近私が意味が解らないと感じた言葉を一つあげると、偽造問題ででてくる「日本は性善説」という言葉。あれを聞くたび性善説の意味が分かって使っているのかという気持になる。日本はどう考えても性悪説でしょう。仕事をする為には住所がないといけないし、仕事が無ければ家を借りる事もできないし、あらゆるところで保証人がいないといけなかったり、サインより印鑑が%E
投稿: 匿名希望 | 2005/12/26 15:09
こんにちは、この話しを見て笑ってしまいました。何故なら、つい先日、財布を忘れて家に財布があるかどうか確認の電話をかけてきた祖母とこんなやりとりを交わしたからです。
祖母 「財布がないんだけど、私の部屋に財布がおいてないかみてくれる「あお」の財布がベットとか机とかの上にないか見て」
私 「見たけどないよ」
祖母 「え、ない?おかしいね。、、、もしかしたらタンスの引き出しのなかにあるかもしれない、私の財布が入っているタンスの所に行って」
私 「財布が3つ入ってる、、けどお金の入った青の財布はないよ」
祖母 「そんなはずはない、、、、、」
電話が切れてしばらくして祖母が帰ってきて、部屋に戻った祖母が「あるじゃん」と大声で言いました。カラクリはこうです。
3つの財布の色は 黒に近い紺 茶 緑 でした。私は絵を描くので、この3色を比較した時に青に一番近い色は紺だと判断しました。その紺の財布の中身をみても何も入っていなかったので、すぐに紺の財布は使わない財布とわかったので数にいれませんでした。残りの色は青系統の色ではないのでこれも違うと思いました。でも祖母の言っていた青は、私から見て緑の財布のことでした。正確にはエメラルドグリーンっぽい色です。確かに緑にも青が入ってますが、青よりも黄色が主張していたので緑の系統に入ります。言語というのは、そもそも理解する為にあるものなのに、日本語は理解ではなく誤解する為にあるように思えてしかたがない。日本語は単語の正確さよりも情緒に頼り過ぎているため共通の価値観が前提としてないと勘違いになる。私はわりとこの勘違いのトラブルが多いのであまり人と話ししたくないのです。
投稿: 匿名希望 | 2005/12/26 14:12
こんにちは、この話しを見て笑ってしまいました。何故なら、つい先日、財布を忘れて家に財布があるかどうか確認の電話をかけてきた祖母とこんなやりとりを交わしたからです。
祖母 「財布がないんだけど、私の部屋に財布がおいてないかみてくれる「あお」の財布がベットとか机とかの上にないか見て」
私 「見たけどないよ」
祖母 「え、ない?おかしいね。、、、もしかしたらタンスの引き出しのなかにあるかもしれない、私の財布が入っているタンスの所に行って」
私 「財布が3つ入ってる、、けどお金の入った青の財布はないよ」
祖母 「そんなはずはない、、、、、」
電話が切れてしばらくして祖母が帰ってきて、部屋に戻った祖母が「あるじゃん」と大声で言いました。カラクリはこうです。
3つの財布の色は 黒に近い紺 茶 緑 でした。私は絵を描くので、この3色を比較した時に青に一番近い色は紺だと判断しました。その紺の財布の中身をみても何も入っていなかったので、すぐに紺の財布は使わない財布とわかったので数にいれませんでした。残りの色は青系統の色ではないのでこれも違うと思いました。でも祖母の言っていた青は、私から見て緑の財布のことでした。正確にはエメラルドグリーンっぽい色です。確かに緑にも青が入ってますが、青よりも黄色が主張していたので緑の系統に入ります。言語というのは、そもそも理解する為にあるものなのに、日本語は理解ではなく誤解する為にあるように思えてしかたがない。日本語は単語の正確さよりも情緒に頼り過ぎているため共通の価値観が前提としてないと勘違いになる。私はわりとこの勘違いのトラブルが多いのであまり人と話ししたくないのです。
投稿: 匿名希望 | 2005/12/26 14:12
こんにちは
日本語って難しいですよね。ただし、どの言語でもそうでしょうけど、「興り」を理解することで多少改善するのでは、と思います。
「緑の黒髪」:
元来日本には色が「あか」「あお」「くろ」「しろ」の4つしかありませんでした。それぞれ「明るい」「ぼんやりして淡い」「暗い」「はっきり」に対応しています。緑ってのは本来色ではなく、「芽出る」から「草木が自然に生い茂る様子」を差しています。
と言うことで、「自然でつやつやとした暗い色をした髪」と言うことになります。
言語の「難しさ」は
・発音
・語順
・語形変化
・表記
で判断するそうですが、この判断基準に沿えば日本語はそれほど難しくないと判別されるそうです。
ただ、実際は使い始めてからさらに難しさに直面するケースが多いようです。日本人であっても、正しい日本語が使えないことが多いかと思います。(「英語が使えない成人のイギリス人」っているのかな?)
投稿: さんた | 2005/12/21 08:57