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2006/08/25

靖国問題について

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靖国問題について議論する時、毎度の事ながら常に論点が定まらず、複数の異なる論点を同時並行に論じるのには閉口する。少し静かになったが、先の小泉首相の靖国参拝もそう。これについて考えてみたい。

この問題の論点、まず以下の3点とした。勿論他にもあるだろう、例えば国立追悼施設の是非等が考えられるが、それは首相の靖国参拝の是非に含まれる。大きくまずはこの3点から整理して、必要ならさらに論点を明確にして議論をしてみたい。

①首相の靖国参拝の是非について

②A級戦犯合祀の是非について

③極東軍事裁判の是非について

1.首相の靖国参拝の是非について 

まずは首相の靖国参拝の是非についてだが、その前提として、①首相は国の代表、事実上の国家元首である、②憲法20条信教の自由、国の宗教活動の禁止、③靖国神社は宗教法人、この3点を上げておく。この3点から、首相の靖国参拝は違憲と判断する、実に簡単な理屈だ。

自説に固執する気はないので、この点をどなたか明確に説明してくれれば考えを変えるが、当代の論客いづれの話を聞いても、誰一人この点を明確にはせず、感情に訴えたり伝統云々の話ばかりだ。

例えば、よく英霊に追悼の誠を捧げて何が悪いと言うが、誰も悪いとは言っていない。手段の是非を問うているのに、目的の是非を論じても何の意味もないのだ。ドーピングを咎めているのに、勝つ事がいけないのかと開きなおられてもなあ、である。

首相の靖国参拝の是非についてはこれで終わり、次に述べるA級戦犯合祀や極東軍事裁判あるいは日本の伝統とかも関係ない。論理的に違憲だからダメなのだ。

だから、追悼の誠を捧げたいのなら、だれもが来れるように、無宗派の追悼施設が必要であることは明らかだろう。信教の自由なんだからナンミョーでもアーメンでもそれぞれのやり方で追悼の誠を捧げれば良い、捧げ方は個人の自由なのだ。

なのに靖国派の人々は、神道は日本人の心だとか、八百万の神を受け入れるほど度量が広いからお参りしなさいと言う。そう思うのは勝手だが、そもそもそんなに度量が広いなら人に強制しなくても良いではないか。国立墓苑が出来たからと言って靖国神社を無くせとは誰も言ってないのだ。A級戦犯を合祀しようがしまいが、私はそれも関知しない、そちらの勝手なのだ。

2.A級戦犯合祀の是非について 

A級だろうがB級だろうが本来、合祀と首相の靖国参拝の是非には関係ない。先に述べたように首相参拝は違憲だからダメなのであり、合祀は一宗教法人である靖国神社の問題だからだ。たまたま共通単語が戦没者というだけで、捉える意味合いが全く違っているのだ。エレクトリック・カーを「電車」と捉え、片や「電気自動車」と捉え同列に議論するようなもの。

一宗教法人の教義であるから何をどう考えようと勝手、「ろうそくの火を次々継いでいけば火を区別できない」あっそう、どうぞお好きにしてください、である

キリスト教や創価学会、はたまたカルト教団もまた、同じように勝手に考えるだろう。そういう次元の話だ。なのに、八百万の神だかなんだか知らないが、それを日本人の心だ伝統だと押し付けられても困る。

経緯に国が介入した疑問があったとしても、大枠では一宗教法人が勝手に合祀しただけの話。例えば、アナタが王監督を神様と崇めようと、誰を崇めようと勝手であり、他人にこれを強要しない限り王監督は文句を言えないのだ。ただし、勝手に自分の親や先祖を祭られたら、誰しも良い気持ちはしないだろう。

靖国神社はそれをやっているのだ、そういう宗教は知る限り靖国神社だけではあるまいか。

同じように、中韓がA級戦犯合祀をとやかく言うのも、靖国神社が一宗教法人の教義の一環として行う限りにおいては、大きなお世話であり、内政干渉だ。

しかし、そこに首相が参拝するとなればこれは、国家の意思表明となるだろうから、彼らの怒りに正当性が出てきてしまう。何の事は無い、本来は日本国憲法で保障された中での一宗教法人の活動に過ぎず国内問題にすらならない事を、わざわざ国際問題にしているのだ。

A級戦犯を立正佼成会や創価学会、どこかの教会、はたまたカルト教団が崇め祀ったと考えれば分かりやすいかもしれない。週刊誌ネタとして賛否両論巻き起こるだろうが、公の議論や国際問題にまではなり得ないのだ。

だから靖国神社のA級戦犯合祀自体は、元々中韓もそれほど問題にしてはいない。当然に首相になる前の小泉氏が参拝しても文句は言わなかったではないか。

3.極東軍事裁判の是非について 

次に合わせ技で常に同時に語られる極東軍事裁判の是非について考えよう。こんなものは戦勝国が勝手に創った事後法によって裁かれた裁判だから無効だとの考えは、一般論として正しい。良い悪いを論ずる以前の常識だろう。

しかし、日本は1951年のサンフランシスコ講和条約でこれを受け入れたのだ。国際条約で受け入れた以上は、それ以降は国家の意思として国際的に確定したはずだ。それを後になって、国民が個別にあれは無しよと言ったところで、誰が誰に対してどの様な責任を持っての発言か分からないから、単なる放言に過ぎず何の意味もない。聞かされた相手も、So what ? だろう。

判決の刑は受け入れたが裁判は受け入れてないなどと言うまか不思議な主張もSo what ?だ、専門的な法学論争としてはありだが、それがサンフランシスコ講和条約の11条とどう係るのか、何よりこの11条に遡り改定しない限り意味がない。

気持ちの上では、そんなマカ不思議な屁理屈(失礼!)を持ち出すまでもなく、戦勝国による事後法の一点をとっても極東軍事裁判が理不尽であることは、日本ばかりかアメリカを除く世界が認めていることだ。そういう分かり切った事が問題なのではなく、問題は分かり切った事に国際条約として日米双方が調印し確立した事実と、アメリカ下院は現在も「極東国際軍事裁判の決定、及び“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決は有効」との立場を取っている(2005714日決議)ことなのだ。

対して、日本は公式な総括を国家の意思として表明しておらず、国際法学会で日本の学者がジャッジメントの解釈について自説を述べたに過ぎない。繰り返すが、ほとんどへ理屈のようなジャッジメントの解釈を個人があれこれ論じたところで、ハッキリと極東軍事裁判は無効であると、日本国が国家の見解を主張し公式に認めさせなければ意味がないのだ。

では仮にこれを認めさせたとして、ではA級戦犯は戦犯ではなくなるだろうか、極東軍事裁判が無効だとしても、日本を一億総玉砕とアジり敗戦に導いた責任は誰かにある。これについては後日としよう。 

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2006/08/09

真実の見分け方

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真実とはいかなる条件においても真実だろう。だろうと言うのは普遍的真実が存在しない(タブン?)ので、だろうと言ったまで。あまり深い意味は無い。正確に言えば過去から現在まで変わらない事実はこれからも真実として変わらない事実だろうとなる。

何?何言ってるか分からない?じゃ一例を。「ニュートンはりんごが木から落ちるのを見て引力を発見した。今日までりんごは落ちているので、少なくとも今日まで地球には引力があったし、これからもあるだろう。」と言うのは今のところ真実なのです。

そして、りんごは誰が何処で落とそうと、地上である限り同じように落ちる。麻原ショーコーが落としたからとて宙に浮いたりはしないし、ミスター・マリックの手を離れたりんごは宙に浮くかもしれないが、それは彼が設定した場でしか起こらないはず。

マリックを素っ裸にして、はいこれネとりんごを渡したなら、そのりんごは落っこちるだろう(落ちなかったらコワイが)。真実はどのような条件でも真実であり、ここがマジックやインチキと決定的に違う。

だから、物事の真偽を確かめるには、条件設定を変えればよい。嘘やインチキは直ぐに辻褄が合わなくなるので分かる。この場所には引力が無いので物が宙に浮きますと誰かが10円玉を宙に浮かせても、アナタの10円を放り投げれば一発で答えが出てしまうのだ。

言うまでも無いが、条件設定を変えて真実を確かめると言っても、「鶏を指して犬を罵る」類の見当違いではいけない。あくまでも「真実の内容」に直結する条件設定でなくてはならないのだ。重力を確かめるのに風船を使っては意味が無いし、重力の価値を論じても間抜けだ。あるいは赤いサングラスをかけて赤い色を確かめても永久に分からないだろう。

もう一つ、物事の真偽を確かめる上で大事なことは「対象」が何かはっきりさせることだ。昔バウという本に「するな!」とだけ書いてある看板が紹介されていて思わず吹き出したことがある。書いた本人は「何のことか」当たり前で大マジメなんだろうが、ただ「するな!」では立ちションなのか、ゴミ捨てなのか、はたまた×××なのかと妄想を膨らませたりして、笑えてしまうのだ。ところが日本では案外こういう例は多い。

例えば耐震偽装事件、これなど最後まで(まだ終わってないが)「真相」の「対象」つまり「何が問題なのか」が分からなかった。世をあげて、耐震偽装に関与したとして小嶋社長や篠塚支店長等が吊るし上げられたが、記憶にある限り具体的に偽装に関与した「事実」即ち「疑惑の対象」は何一つ示されないまま次々血祭りに上げられていたのだ。例えば篠塚支店長は耐震偽装とは直接に関係ない経理の不正の容疑での裁判だし、小嶋社長も詐欺疑惑だ。

追求すべき事実或いは知りたい真実が何なのか不明のまま、即ち「するな!」が何のことなのか不明のまま、手当たり次第「してしまった」罪の追求が行われたのだ。まさしく集団リンチのようなもの、人々は怒っているが何に対して怒っているのか、実はよく分かっていないのではないだろうか。

最近では亀田興毅の八百長疑惑がこれだろう。全てのニュースを見ているわけではないので断定できないが、具体的にこの試合の何に疑惑があるのかが指摘されないまま、ただ情緒的に「八百長だ!」と騒いでいるように見える。

少なくとも試合は双方全力でやっている印象であるので問題はもっぱら審判の判定やこれを誘導したとされるプロモーターであり、ここに疑惑がもたれているようだ。では具体的に何が問題?となると途端に話が見えなくなる。

まず採点方法だが、採点ルールの妥当性は別にして、少なくとも3人の審判の採点には採点ルールに基づく限り矛盾が無い。それでも疑惑があるとすれば、審判が3人とも買収された場合だろうが、具体的に採点の何処に疑惑があるのか指摘が無いのでこういう疑惑には無理がある。

本当に審判やプロモーターに疑惑があるならば、ああだこうだ推測するより具体的に問いただせばよいではないか。「するな!」看板と同じで、解明すべき具体的な疑惑が不明では、解明のしようもない。

しかし、確認すべき真実が亀田選手が殴りあいで世界一強いかどうかならば条件設定を変えて確かめれば直ぐ分かること、つまり試合をすれば済むことだ。世界一ならランダエタ選手と再戦しても、他の選手と戦っても勝つだろう。仮に亀田が勝ったときにファンが納得しなければならないのなら、たとえ勝ってもファン投票で負けならベルトを返上すると約束すれば良いだろう。

亀田選手のファッションや態度を論じても、重力の証明に風船を使ったり重力の価値を論ずるようなもので何の意味も無い。これまた耐震偽装事件と同じで相変わらず本質を外した「鶏を指して犬を罵る」の類だ。

ついでに言えば、テレビ朝日の「スーパーモーニング」での亀田父親の史郎氏とやくみつるのケンカにはワロタ。

http://www.youtube.com/watch?v=ly2-qjCWLZ0&mode=related&search=

父史郎の言葉遣いはめちゃくちゃ悪いが、言ってる内容は全て筋が通っており、全くぶれない。対するやくみつるやガッツ石松は自分の設定した前提条件だけで話すから、その前提を崩されるとたちまち論理が破綻してしまう。

例えば、やく氏「腹立つやろ。腹立つやろ。あんたの息子はこれをやっとる。今日はオッサンの教育に来たんや。パフォーマンスをダラダラ1時間半も見せられるのが嫌。オレは挑発に来た」に対し、史郎氏「嫌やったら見んでええよ! オレは話し合いに来とんねん。その態度で興毅に教育っていうことないやろ。ケンカするならするで。勝負の世界は命懸け。挑発も駆け引きや。」と言う。

亀田興毅の態度は勝負の駆け引きに限定したパフォーマンスと主張する父史郎氏の主張は、好き嫌いを別にすれば論理に破綻が無いが、この前提を無視して一般論としての礼儀作法でなじるやく氏の論理は「鶏を指して犬を罵る」典型で、まるでダダをこねるお子ちゃまレベルだった。

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2006/08/03

痴呆議員不要論(3)

ネットを検索していくと土着の妙に生々しい情報にブチ当たる事がある。で、その地域の情報をさらに検索するとトンデモ情報がザクザクあって、論理的につなぎ合わせると、どう見ても不正じゃないかと思わせる事件に遭遇したりする。

○○市民とか○○協議会なんていうのを検索すると、結構その地元の生生しい情報が見えてくるのだ。一例を挙げると↓これなんかそう。

http://blog.livedoor.jp/clickchamp/?blog_id=1174197

http://6253.teacup.com/ohayasi/bbs

サービスエリアを検索していて偶然ヒットしたのがきっかけで、この街がどういう街でどこにあるかも知らなかったが、住民同士の議論や議員に対する疑問が公開されていて、それでいて議員は公の発言では一切反論しない(出来ない?)様子が伺え、実に興味深い。

たとえば、埼玉県蓮田市では、住民協働により総合振興計画を策定したところ、議会が一切の理由も明らかにせず否決してしまったそうな。総合振興計画とは自治法2条に規定する自治体の基本構想であり、いわば自治体の経営計画である。

蓮田市では、これをアンケート調査を行った上民参加で策定し、その案をパブリックコメントで全市民に開示し意見を募集した。さらには議会代表を含む審議会で審議し策定したのだから、議員に不満があれば、審議会でも、パブリックコメントでも意見は言えたはずだが、議論すらせず、一刀両断に議会で否決してしまったのだそうだ。こう言ってはナンだが、ここまで民意を無視出来るとは時代が100年ずれている。市民レベルが高いとされる鎌倉市あたりならたちまちリコール騒ぎだろう。

だから市民が怒るのも当然だろう。自治連合会などは、何故否決したのかその理由を教えて欲しいと公開質問をしたところ、逆に議会側に自治連合会代表が呼び出され罵倒される始末だとか。

そこで議員たちの言っていることは何の根拠も無く支離滅裂、たとえば基本計画が無いからイカンとか、これでは県がOKしないとか、挙句に何故質問などするのかと恫喝まがいだったのだ。

ちなみに基本計画が無ければならないとはどこにも規定されていし、ましてや地方分権一括法以来、県には承認も報告も必要ないのだ。いったいどこで聞きかじった知識なのかあきれてしまうが、それを堂々と議員が放言し、市民を罵倒するというのだから、もう無茶苦茶、痴呆議員ここに極まれりだが、そう言われて黙っている市民も相当にレベルが低いといわざるを得ない。やはり田舎なんだろうか。

田舎の特徴として議員たちは特権意識を持っており、民意など無関係、有力支持者しか見ていないのだろう。さらにこの街の議会のスゴイ所は、延々と百条委員会をやっているらしいのだが、その目的が不明ということ。

聞けば、保育園を埋め立てした土からフッ素が検出されたので「近隣住民と園児の安全のための調査特別委員会」という。ところが、工事中出てきたゴミにバッテリーが有ったとか無かったとか、それが産廃じゃないかとか中身は全く関係ないことばかりで、傍聴した市民から嘲笑されながらというお粗末さ。

百条委員会とは本来不正を糾弾し真相解明のために議会に与えられた特権的な調査権なんだが、この街ではそれを乱用する百条委員会が最も怪しい。だから皮肉にも市民の間からは、百条委員会を調査する百条委員会が必要との声も上がってきている。

それ以前にそもそも、何故ここ掘れワンワンなのか、このメンタリティーの低さに呆れてしまう。この街の住民には申し訳ないが、まるで座頭市映画で田舎ヤクザが支配する街のようだ。こういう街では、ほじくり返すとヤバイ話がゴマンと出てきそうである。

それにしても、蓮田市は新宿や丸の内から4~50分のベッドタウンであり、決して田舎ではない、相当に優秀な市民も少なからずいるはずなのに実に不可解だ。

市民レベルが低いと言えばその通りだが、要は、地域に関心が無いのだろう。市民の無関心が議員の横暴を許し、街に魅力が無くなりさらに無関心になるという負のスパイラルに陥っているのだろうか。

この関心の無さが実は、蓮田市に限らず今日、日本の地方議会をダメにしている。市民は無関心故に、主体的な投票行動を取らず、人から頼まれたり知名度で投票するから、地縁血縁や組織票に牛耳られてしまうのだ。挙句に、これといった人物がいないから投票棄権が意思表明だという。主張する権利の行使を否定していったい何を主張するというのか理解に苦しむところだ。

その結果、ビジョンも何も無い利権志向だけの輩が地方政治を牛耳ることになってしまい、箱物だらけ。気が付いたら夕張の二の舞になりかねない。夕張の借金は100年かかっても返せないというが、何も夕張に限った事ではあるまい。アナタの街の財政状況を正確に調べてみたらゾッとするはず。その証拠に、複雑怪奇な項目立てでほとんど解明不可能な決算書になっているはずだ。それに肝心なところ、例えば特別会計の詳細などは絶対に情報開示しないだろう。

だから地方政治のオソマツさは必ずしも痴呆議員の所為とは言い切れない、自治体職員にも問題がある。が、残念ながら市民は彼らを選べないし首にも出来ない。何より役所の人事権は首長にあるから、結局市民の責任ということになる。

やはり選挙が全てなのだが、一方地縁血縁で機能せず真の民主主義には程遠いのも事実。ならば、強引に直接民主主義に近づけてしまうのも手だろう。その2で述べたようにいっその事選挙など止めてしまって、自治会単位で独自に代表を決め、それを議員としてしまうのだ。正に住民の代表であり地縁血縁も知名度も関係ない、利権に結び付こうにも数が多すぎて不可能だろう。

この蓮田市を例に取れば、約100の自治会があるから100議席だ。利権派がどんな工作をしようと100人を抱きこむには費用対効果が失われ不可能だろう。また100人もの議会ともなれば、公開討論のようになり密室性は失われるから、ウソを平気で言ったり、バカ化た議論もそうそう出来なくなり自浄作用が働く。

この国の民主主義は民衆が勝ち取ったものではないから、制度の一部である選挙を輸入しただけで、地方政治の中身は未だに「へへー、おでゃーかん様」なのだ。ならば、無理やり強引にでも民主主義を創るしかない。つまり強引に直接民主主義に持っていってしまうのだ。

市政に文句があれば、町内会の会長に文句言えばよい。町内会の会長がろくでもなければ代えればよいし、周りが問題ないといえばアナタが間違っているのだ。ひょっとしたらなり手の無い会長に、名乗り上げる人も出てくるかもしれない。

地方議員とは本来そういうもののはずだ、一家を養う程の報酬でもなく、年に4回の議会でオラが街の規則や予算を監視するだけの仕事なのに、必死に名前を連呼して議員になりたがること自体怪しいのだ。

もし600万円程度の議員報酬を本気で生活の糧とし夢中になるとすれば、世間的に相当能力が低いと言わざるを得ず、そんな人物にはとてもではないが政治を任せるわけにはいくまい。10人の痴呆に600万円払うより、100人の住民代表に60万円払った方が効果的だと思うのだがいかがだろうか。あるいはその逆で少数精鋭にして議員専任で十分に生活できるように、報酬を市長と同等にする手もあるかもしれない。

いづれにせよ、今のような選挙制度や痴呆議員は不要である。

PS:余談だが、この蓮田市の総合振興計画策定審議会会長はあの大森わたる東大名誉教授(自治の権威)だそうだ。失礼ながら地方都市にしては過分な豪華メンバーと言えるだろう。しかしその大森教授に説教をたれた議員がいると聞いて絶句した。バカに付ける薬はないと言うが、この痴呆議員、中田に対してもドリブルの仕方を説教するのだろうか。

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