真実の見分け方
真実とはいかなる条件においても真実だろう。だろうと言うのは普遍的真実が存在しない(タブン?)ので、だろうと言ったまで。あまり深い意味は無い。正確に言えば過去から現在まで変わらない事実はこれからも真実として変わらない事実だろうとなる。
何?何言ってるか分からない?じゃ一例を。「ニュートンはりんごが木から落ちるのを見て引力を発見した。今日までりんごは落ちているので、少なくとも今日まで地球には引力があったし、これからもあるだろう。」と言うのは今のところ真実なのです。
そして、りんごは誰が何処で落とそうと、地上である限り同じように落ちる。麻原ショーコーが落としたからとて宙に浮いたりはしないし、ミスター・マリックの手を離れたりんごは宙に浮くかもしれないが、それは彼が設定した場でしか起こらないはず。
マリックを素っ裸にして、はいこれネとりんごを渡したなら、そのりんごは落っこちるだろう(落ちなかったらコワイが)。真実はどのような条件でも真実であり、ここがマジックやインチキと決定的に違う。
だから、物事の真偽を確かめるには、条件設定を変えればよい。嘘やインチキは直ぐに辻褄が合わなくなるので分かる。この場所には引力が無いので物が宙に浮きますと誰かが10円玉を宙に浮かせても、アナタの10円を放り投げれば一発で答えが出てしまうのだ。
言うまでも無いが、条件設定を変えて真実を確かめると言っても、「鶏を指して犬を罵る」類の見当違いではいけない。あくまでも「真実の内容」に直結する条件設定でなくてはならないのだ。重力を確かめるのに風船を使っては意味が無いし、重力の価値を論じても間抜けだ。あるいは赤いサングラスをかけて赤い色を確かめても永久に分からないだろう。
もう一つ、物事の真偽を確かめる上で大事なことは「対象」が何かはっきりさせることだ。昔バウという本に「するな!」とだけ書いてある看板が紹介されていて思わず吹き出したことがある。書いた本人は「何のことか」当たり前で大マジメなんだろうが、ただ「するな!」では立ちションなのか、ゴミ捨てなのか、はたまた×××なのかと妄想を膨らませたりして、笑えてしまうのだ。ところが日本では案外こういう例は多い。
例えば耐震偽装事件、これなど最後まで(まだ終わってないが)「真相」の「対象」つまり「何が問題なのか」が分からなかった。世をあげて、耐震偽装に関与したとして小嶋社長や篠塚支店長等が吊るし上げられたが、記憶にある限り具体的に偽装に関与した「事実」即ち「疑惑の対象」は何一つ示されないまま次々血祭りに上げられていたのだ。例えば篠塚支店長は耐震偽装とは直接に関係ない経理の不正の容疑での裁判だし、小嶋社長も詐欺疑惑だ。
追求すべき事実或いは知りたい真実が何なのか不明のまま、即ち「するな!」が何のことなのか不明のまま、手当たり次第「してしまった」罪の追求が行われたのだ。まさしく集団リンチのようなもの、人々は怒っているが何に対して怒っているのか、実はよく分かっていないのではないだろうか。
最近では亀田興毅の八百長疑惑がこれだろう。全てのニュースを見ているわけではないので断定できないが、具体的にこの試合の何に疑惑があるのかが指摘されないまま、ただ情緒的に「八百長だ!」と騒いでいるように見える。
少なくとも試合は双方全力でやっている印象であるので問題はもっぱら審判の判定やこれを誘導したとされるプロモーターであり、ここに疑惑がもたれているようだ。では具体的に何が問題?となると途端に話が見えなくなる。
まず採点方法だが、採点ルールの妥当性は別にして、少なくとも3人の審判の採点には採点ルールに基づく限り矛盾が無い。それでも疑惑があるとすれば、審判が3人とも買収された場合だろうが、具体的に採点の何処に疑惑があるのか指摘が無いのでこういう疑惑には無理がある。
本当に審判やプロモーターに疑惑があるならば、ああだこうだ推測するより具体的に問いただせばよいではないか。「するな!」看板と同じで、解明すべき具体的な疑惑が不明では、解明のしようもない。
しかし、確認すべき真実が亀田選手が殴りあいで世界一強いかどうかならば条件設定を変えて確かめれば直ぐ分かること、つまり試合をすれば済むことだ。世界一ならランダエタ選手と再戦しても、他の選手と戦っても勝つだろう。仮に亀田が勝ったときにファンが納得しなければならないのなら、たとえ勝ってもファン投票で負けならベルトを返上すると約束すれば良いだろう。
亀田選手のファッションや態度を論じても、重力の証明に風船を使ったり重力の価値を論ずるようなもので何の意味も無い。これまた耐震偽装事件と同じで相変わらず本質を外した「鶏を指して犬を罵る」の類だ。
ついでに言えば、テレビ朝日の「スーパーモーニング」での亀田父親の史郎氏とやくみつるのケンカにはワロタ。
http://www.youtube.com/watch?v=ly2-qjCWLZ0&mode=related&search=
父史郎の言葉遣いはめちゃくちゃ悪いが、言ってる内容は全て筋が通っており、全くぶれない。対するやくみつるやガッツ石松は自分の設定した前提条件だけで話すから、その前提を崩されるとたちまち論理が破綻してしまう。
例えば、やく氏「腹立つやろ。腹立つやろ。あんたの息子はこれをやっとる。今日はオッサンの教育に来たんや。パフォーマンスをダラダラ1時間半も見せられるのが嫌。オレは挑発に来た」に対し、史郎氏「嫌やったら見んでええよ! オレは話し合いに来とんねん。その態度で興毅に教育っていうことないやろ。ケンカするならするで。勝負の世界は命懸け。挑発も駆け引きや。」と言う。
亀田興毅の態度は勝負の駆け引きに限定したパフォーマンスと主張する父史郎氏の主張は、好き嫌いを別にすれば論理に破綻が無いが、この前提を無視して一般論としての礼儀作法でなじるやく氏の論理は「鶏を指して犬を罵る」典型で、まるでダダをこねるお子ちゃまレベルだった。
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