履修漏れは壮大な茶番
■壮大な茶番
こういうと世界史はグローバルな視野を養うのに必要だなんて、見当違いの反論をする人が必ずいるが、誰も世界史の必要論を論じてるわけでは無い、地理でもよい。要は受験に必要ない科目を履修していない、ケシカランという事なんだが、それは建前だろう。
勿論建前を否定していては、秩序は保てなくなるが、実態も内容も形骸化していて、しかも今に始まったことではない、何十年も公然と行われてきたことを、大真面目に良い悪いと議論するなんぞ、壮大な茶番と言わざるを得ない。
■問題点
何しろ、必修と言いながら、どれだけ理解したかは全く議論の対象ではなく、何時間履修したかなんだから、既にこの事自体が自己矛盾なのに、誰一人そのことに言及しない。一体全体何を問題で、何がいけないのか、そこがすっぽ抜け、何をすべきかばかりを大騒ぎしている。
具体的に指摘しよう。問題となっているのは、①必修科目を履修していないのはケシカラン、②履修した生徒に対して不公平、③受験目前で履修させるのは生徒の負担ではないか、④どのように履修させるか、だろう。
■どうすべきか
① 必修科目を履修していないのはケシカラン
必修なんだから確かに、原則論から言えばその通りだ。だったら、履修させれば良い。それだけのことじゃないか?
② 履修した生徒に対して不公平
どうも、言われている不公平とは、履修しなかったことによる知識不足のことではなく、今履修すると受験科目の勉強に影響するから不利とか、履修していない分、受験科目に時間を避けたので有利だという事らしい。こういう話が出ること自体、論点がずれている。必要な教育を受けていない事、理解していない事が問題ではないのか。
③ 受験目前で履修させるのは生徒の負担ではないか
これも負担云々をいう事自体、論点がずれている。同じく必要な教育を受けていない事が問題ではなかったのか。また、履修するか否かが問題ならば、時期を今に限定すること自体おかしい、次に述べるように卒業までに履修すればよいではないか。
④ どのように履修させるか
先に述べたように、必修と言いながら理解度は全く問題になっていない自己矛盾なんだから、どのように履修するかなんて事が何故問題になるのだろう。理由がよくわからないが50時間の履修が必要と言うのなら、50時間履修することだけが問題なんだから、何も受験前にやる必要も無いと思うのだが。受験が終わった後24時間ぶっ通しでやるとか、1日10時間を5日やれば1週間で終わるではないか。
■白々しい
そもそも、繰り返すが必修と言いながら、誰も中身つまり理解度の話をしていない。当然に理解度をチェックする標準メソッドもない。となれば、寝てようと何しようと、授業を受けたか否かだけが問題なんだから、そのことを議論し守れば良いのではないか?
受験生が現実の受験に必要ない科目を本気で勉強すること自体考えにくい。それは趣味的領域だろう。何より、何十年もの間、みんなそうやって来たではないか。あなた、違いますか。誰もがそう思って事実そのようにしてきたのに、卒業して当事者ではないものだから、白々しく、ああだこうだ言ってるに過ぎない。
よくもまあ、こういう白々しいことをみんなで大騒ぎするとは、信じがたいほど壮大な茶番だ。誰一人として利益が無く、誰一人として、しかも何十年も問題にせず、繰り返されてきた事実をだ。おいダイジョーブかニッポンジン!
■受験制度
それでも、単に履修時間をクリアすればよいというものではない、形式や建前ではなく必修なんだからと、絶対にまじめに勉強すべきだというのなら、当然に大学受験にも必須科目とするなど受験制度自体も筋を通さなければおかしい。
そもそも大学に受かってしまえば遊んでいても卒業できる日本の教育システムに原因があることは明らか。受かってしまえばよいのだから、受験に必要ない科目は当然おろそかになるのは当たり前だ。何十年もそれを野放しにしていて、突然ケシカランはないだろう。
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