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2006/12/23

土曜版/デスノートに学ぶ論理学

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02 デスノートって面白いですよね、あれって前編にわたって論理的推論のオンパレードです。時々頭が痛くなりますが、論理的思考を訓練するには恰好の材料です。そこで土曜日の午後は、デスノートを題材に論理学を学んでみましょう、と言うわけです。

■論理学との出会い

私は生まれつき理屈っぽかったらしく、母は4歳のころから屁理屈をこねていたと言います。ですが、自分ではそんな自覚は有りませんでした。でも、バカって言うオマエがバーカなんて聞くと、何故そうなのか理由を言ってみろ、言えない?自分が言ってることも分らないんじゃやっぱ、オマエはバカじゃないか言ってましたね、ヤなヤツでした。それは自覚してます。三つ子の魂百までって言うのでしょうか、今も談合業者からは嫌われてます。

そんな訳で、子供の頃から読むものは夢物語よりも、ハウツーモノが好きでした。なかでも私が高校生の頃読んだ、板坂元の「ものの見方・考え方」と言う本は衝撃的で、この本が物事は大きく俯瞰して見なければならないと教えてくれました。

例えば、こんな下りがあります、「米軍戦闘機は、座席に防弾装備があって人道的だが、日本軍機には無いので非人道的だ、と言う理屈は、オカシイ。戦争で人を殺すこと自体が非人道的なのに、自分の身を守るか守らないかで人道的かどうかを論じても意味が無い。大前提を見落として枝葉の議論をするとこうなる」というような内容でした。

簡単に言えば、木を見て森を見ずを分りやすく例えたのです。目から鱗でしたね。物事を引いて大きく俯瞰して見ることの重要性を教えてくれました。余談ですが、念の為ネットで検索してもこういう著書名がひっとしませんので「考える技術・書く技術」の記憶違いかもしれません。

こういった考える技術を教えてくれる書物に出会うと、急に自分の理解力が上がるような気になりますが、読まないよりは良い程度の進歩でしかなく、読んで身に付いた分しか進歩しません。ま、当たり前なんですが、やはりこういう人の体験から来る考え方を学んでも、自分自身が体験しないとなかなか身に付かないものです。

ところが、10年程前、何気に「論理的に話す方法/小野田博一」(実業の日本社)を読んでぶったまげました。ようこそクールワールドへ、として論理学の基礎を分りやすく解説していて、今まで経験則として蓄積してきた屁理屈を一気に体系づけることが出来たのです。

■論理学は思考を省力化するツール

ああ、論理学って、こんなに面白い学問だったのか、勉強嫌いな私は「学」に拒否反応していましたが、知ってみると、これはものの考え方を物凄く効率化するツールだったのです。

たとえて言うと、自転車を手に入れるようなもの。走る能力は変わらなくても、自転車に乗れば、自分の身体能力だけでオリンピック選手以上に早く走れるでしょう。それと同じです。また、論理的思考を身に付けることで、ウソを見破り易くなり、真実を推理し易くなります。マスコミは屑情報ばかり流しますが、グズ情報をじっと眺め、論理的推論をすることでクズのなかから明らかな真実が見えてきます。

時には、物理の法則すら実験しなくても論理的思考によって証明できます。万有引力の法則が正しいとすれば、物体の落下速度は重さに関係ないというのは、何もピサの斜塔からモノを落っことさなくても証明できます。軽いものと重いものを紐で縛って落としたどうなると言うのがそれですね。(正確には地球の引力による落下速度のことですが)

■論理学入門は玉石混交

そんな訳で、私自信専門家ではないので、アカデミックな解説は出来ませんが論理的な思考、話し方のご参考になればと思い、論理学の実践的な部分を入門の入門としてお話させていただきます。入門の入門としたのは、論理学の面白さ、可能性を感じていただくためで、後はご自身で様々な論理学書物を読んでください。

ただし、論理学に関するする書籍は玉石混交で、ある程度指標が必要かと思います、なにしろ単なる自説を延々垂れ流ししているディベートのハウツー本や、かと思うと超難解な語句と理論を使って出来るだけ、論理学を分りにくく解説しているとしか思えない本もケッコウあるからです。

入門としては、先の「論理的に話す方法/小野田博一」(実業の日本社)がお勧めで、これをさらにパワーアップした文庫本を最近見ました。少し、アカデミックにしたところでは、同じく小野田博一氏の「論理を強くする」(ブルーバックス)がお勧めです。

では第1限目は、

第1限目:論理的に話すこととは

     論理的に話せない日本人

アメリカ人に、自転車と自動車どちらが好きかと聞くと、「ボクは健康志向だから、自転車さ」とか、「オー・ノー、私は忙しいの、タイム・イズ・マネーだから車ね」と返って来ます。

同じ事を日本人に聞くと、「車さ、車に決まっているだろう」とか「ツマンナイこと聞かないで、自転車よー、絶対そう」といった答えが返って来ます。両者の違いは何でしょう。

■アーギュメントとステイトメント

アメリカ人の答えは、理由を説明して結論を述べていますが、日本人のそれは結論のみです。前者をアーギュメント、後者をステイトメントと言い、当然に論理的発言には前者が求められます。このように、アーギュメントは数個の前提(premisese)と結論(conclusion)からなる文章や発言です。

但し、このアーギュメントという単語にはあまり固執しないで下さい。イギリスでは、相手を否定するニュアンスが含まれているので、留学されたかたにはタブン違和感があるかも知れないからです。発言の構造と捉えてください。

兎に角、日本人の議論を聞いていると、この最低限のアーギュメントすら構成できず、単なるステイメントの羅列が多過ぎます。昔、スネークマンショーというラジオのパロディ番組みで、こういうのが在り笑えました。

【ある会議の様子】

A:「ボクはねえ、ロンドンブーツ3つもってるけどさー、今のヒップホップは、いいものも有るけど、悪いものも有るなー」

B:「あ、そー。でもね私はなんてったって、いい物もあるけど、やっぱ悪いものも有ると思いますよ」

C:「エー、信じらんない、君たちオカシイよ、いいか、いい物もある、けど悪いものもある、何でこれがわかんないんだ」

とまあ、延々とこの「いい物もある、けど悪いものもある」を繰り返していくのです。

只々、感情を織り交ぜ、結論だけを言いつづける。理由の説明が無いから、反論は反論のためで同じく理由が無い、よく聞くとお互い同じ事を言っている。と言うのは良くあるパターンです。

日本では、これでも議論と言いますが、単なる放言合戦です。早い話、バカとアホウがガナリあっているだけです。

■論理の形式

論理的に話す、或いは思考するためには、その論理構造の形式が正しくなければなりません。論理的な発言の正しさは、内容ではなく形式に関わるのです。オイオイ述べていきますが、今日のところは分りやすい3段論法を例に「論理的に正しい」とは何であるか、ご説明しましょう。(3段論法は幼児が誰からも教わらなくても身に付ける論法と言われ、これが論理的に正しいことに異を唱える人はいないでしょうから)

■3段論法

3段論法は次の形式を持っています。

・AならばB、BならばC。故にAならばC。

論理学の記号で表わすと、((A→B)∧(B→C))→(A→C)となりますが、この辺はあまり実戦的ではないので、気にする必要はありません。サラットいきましょう。

さて、このABCには、何を代入しても構いません。

A=美しい

B=誰からも好かれる

C=楽しい人生

を、入れてみます、すると次のようになります。

     1段目:美しいならば、誰からも好かれる。

     2段目:誰からも好かれるなら、楽しい人生だ。

     3段目:故に、美しいならば、楽しい人生だ。

これは論理的に正しい発言です。まあ、そんな説明しなくてもなんとなくわかりますよね。では、こういう例はどうでしょうか。

A=聡明

B=誰からも嫌われる

C=美人

     1段目:聡明ならば、誰からも嫌われる。

     2段目:誰からも嫌われるなら、美人だ。

     3段目:故に、聡明ならば、美人だ。

そんなバカなと思いますが、これも論理的に正しい発言です。段々混乱してきたかもしれませんが、もうイッパツ。

A=猫

B=魚

C=ビール

     1段目:猫ならば、魚である。

     2段目:魚なら、ビールだ。

     3段目:故に、猫ならば、ビールだ。

これは、もうむちゃくちゃ極端な例ですが、でも論理的には正しい発言です。こういう例を見ると、もう途端に引いてしまいますよね。論理学が机上の空論のように思われる所以です。かの国ではアームチェアの科学と呼ばれていますが、美しい人が好かれようが好かれまいが、猫がビールでも、論理学が命題の内容の真偽を問わず、形式の正しさを問う殻のようです。

何故かは、ギリシャ時代までさかのぼって説明しなければなりませんので、別の機会に譲るとして、ここでは兎に角、形式の正しさが重要である事を素直に受け入れてください。

ところで、混乱した方は、ここで

A=「ライト」

B=「キラ」

C=誰でも殺せる、としてみましょう

     1段目:ライトならば、キラである。

     2段目:キラなら、誰でも殺せる。

     3段目:故に、ライトならば、誰でも殺せる。

もうお分かりですね、これは架空の物語、だからライト、L、矢神、ヨツバ社員、リューク、殺せない、殺せる、だれも、誰でも、いつも、書いたら、書かなければ、その他何でも設定して、シャッフルしてABCに当てはめたら、そういうストーリーが出来上がり、この論理構造が内容に関わらず正しいことがご理解できるでしょう。

真実をいくら積み重ねても、組み立て方が正しくなければ、得られる結論は真とは限りません。これは訓練を重ねることで理解できるでしょう。

今日の講義はここまで。最後に論理的な子供と、非論理的な母親の会話をお届けしましょう。

子供:「おかあさん、ボク静かにしていたら、プレステ買ってくれるって言ったよね。ボクずっと喋らなかったから、プレステ買ってね。」

母親:「なに言ってるの、この子は、あんな高いもの、家にはそんなお金ありません。絵本で我慢しなさい」

この母親が論理的ではないことは直ぐにお分かりでしょう、では何処が間違っているのでしょうか。それはこの講座が終わる頃、皆さんには簡単に説明できることでしょう。

1限目終わり

次は来週土曜日(タブン)

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