日曜版エッセイ/人と人のコミュニケーションと常識
よく、日本人の常識は世界の非常識と言われるが、どこからそうなるのだろう。日本人も、アメリカで育てば、アメリカ人だし、日本で育ったアメリカ人はやっぱり日本人だろう。
東北弁で、んだっぺよう、なんて言うアメリカ人はあまり見ないけど。だいたい、人間は生まれたときは、そんなに大差なくて、どこの国でもオギャーと生まれるみたいだ。これはイスラエル人でもアラブ人でも同じ。
ぎゃははは・・・・とか、モーとか、ヒヒーンなんて泣き方で生まれる子はいないだろう。いや、いるかも。
それはさておき、生まれた時はどうやら人間皆同じみたいだから、氏より育ちで、その後の生活環境で人格や、感情までもが形成されるのだ。
それが証拠に、今時、右翼は別にして、天皇陛下ばんざーいとかいって、感涙にむせび泣くひとはいないし、赤穂浪士宜しく、主君(例えば社長とか)の為に命を投げ出したり、処女を奪われたから自殺する女なんてそうはいないし、キスをしたから結婚しなくちゃなんて誰も考えない。
そうして見ると、人間の価値観ばかりか、喜怒哀楽といった感情の動きまで、結構回りの環境に支配されてることに気が付く。
そこで、こんな事を考えた。
ある国で、王様が、おふれを出して、悲しい時は笑い、楽しい時は泣け、おかしい時は怒れ、親愛のシルシでは突き飛ばし、嫌いな相手は抱きしめる。というように、全て逆の表現をするようにしたとしよう。
この王国では何代にも渡って、これが継承され、生まれてから死ぬまで、こんな習慣が身についたのでDNAに蓄積され、恋人同士は何時も怒った顔でどつきあい、ケンカをしている人はニコニコしながら抱き合ってるのだ。
こんな国に紛れ込んだらたまらんなあ。
と思いきや、アッタマにきて怒鳴ったら、(そっちの言葉では喜んで)怒鳴ってくるし、君が好きだよーって抱きしめると(そっちの言葉では、げー、ヤナやつーてんで)向こうもぐっと抱きしめる。
こんな調子で、お互いの思惑とは関係なく、表に見える現象としては結果として違和感が無いのだ。
でもやっぱり変だ、お葬式にはみんな喜んでるしなどと考えるが、
お葬式でドンチャン騒ぎする習慣の国はいっぱいあるので、そうかあ、と納得する。
でもって、国によって習慣が違うなーと思いながら、その国を後にすると、みんなが手を振って涙を流してるじゃないか。なんて素晴らしい国なんだろう。
と、あなたは思うのだが、ところがどっこい、彼らはバカヤロー、てめーなんか、二度と来るなよー、いなくなってうれしーぜーと、こちらの言葉に直せば思ってるのである。
では、赤ん坊がどうして、おぎゃーと泣くか、かの国では生まれてきて楽しくてしょうが無いから泣いているのだと、皆思っている。
これで、何の問題があろうか。
所詮、常識なんてこんなもんで、思いこみの集大成で成り立っており、常識での価値判断は、常識がただしいーと信じた所から全てがスタートしているため、じつは物事の本質的価値を何一つ判断していないのだ。
常識とは、その社会の単なるルールであって、真理とは全くもって直接には関係ない。
だから、チョイ話が飛ぶが、常識に縛られた技術者には、技術革新など及びもつかないのだろう。
なに、こんな愚にも付かないことを言ってるおまえは非常識だって?
ありがとうーサイコーの誉め言葉です。
(・・・・・・・・エッ、付ける薬が無い?)
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
人間も元は本能的な欲でしか動かない動物で、常識は人間が集団生活を営むために作り出したルールだからなぁ・・。
投稿: | 2007/01/14 18:26