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2007/02/11

人類滅亡しても地球は生きる

炭酸ガスが温室効果ガスと言われるが、ふわふわと浮遊する無色透明のガスが何故、ガラスやビニールみたいな働きをするのか不思議に思われるだろう、そのメカニズムはこうだ。

■温室効果のメカニズム

CO2のように、3つ以上の原子を持つ分子の物質は、光の波長を長くする波長変換機の働きをする性質を持っている。そのため炭酸ガス濃度が濃い大気層を太陽光が通過すると、波長の長い赤外線や遠赤外線に変えられてしまう。

厄介なのは、逆にはならない事だ、通過してきた長い波長の光は通さないので、放射冷却がされにくくなるのだ。つまり、太陽光線が熱に変えられて地球の大気圏に入り込み、しかも熱を封じ込めてしまうのだ。

■炭酸ガス濃度は0?

ところで、この炭酸ガス、一体どれくらいの量かといえば、大気中の濃度は0.03%のだ。1分の0.03ではない、100分の0.03である。とんでもない微量だ。大気中の成分は酸素が21%、窒素が79%である事は中学校で習ったはずだ。

あれれ、21たす79100じゃないか?そう、その通り、炭酸ガス濃度とは整数でパーセントを丸めるとゼロになってしまう濃度でしかないのだ。でだ、チョイとお考えいただきたいのは、ではこの大気中に0.03%しかない濃度はこの何十億年の間どう変化したのかだ。

■不変の大気組成の不思議

驚く事に、この間太陽エネルギーは大きく変化しているのに、大気中の組成は全くといってよいほど変化していないのだ。大部分を占める酸素や窒素の濃度が変わらないならまだしも(しかし、その事もスゴイ)、わずか、0.03%、もうほとんど誤差の範囲、測定限界ゼロに近いガスの濃度までは変化していないのだ。

不変の大気組成を変える人類?

ところが、その炭酸ガス濃度が、対90年比では、8%上昇している。ちなみに、京都議定書で我が国に割り当てられたのは対90年比マイナス6%だから、合計マイナス14%となる。

勿論地球規模の年月の間には、この程度の変動はあったかもしれないが、わずか15年の間に人為的に起こった可能性が非常に高い事はマチガイナイだろう。

■人間の側から見た自然環境

我々は、人間の側から事実を見、科学しているが、地球の側から見たらどうなるだろうか。このまま気温が2度上昇すれば人類の危機と言われているが、要するに人類を含めて今地球上に生息している生物の危機を言っている。

■地球さんは困らない?

所詮人間が食っている生命体のことなんだが、人間含めてこう言った人間中心に考える食物連鎖の発想から来る生命が絶滅したとしても、地球さんは困らないだろう。いつのまにか、恐竜というバイキンが死に絶えたと思ったら、もっと小さな人間というウイルスに犯され地球はひん死状態に近づいた。けれども、地球が死に絶える前に、ホメオスタシスの働きで人間を中心とするウイルスが死滅しまた新しい生命体が誕生し、新たな生態系が生まれるだろう。

■ゼロが変化する意味

兎に角、言える事は、別に炭酸ガス濃度だけではない、同じくゼロの範疇に入るメタン、アンモニア、ありとあらゆる大気組成が何十億年も不変であったのに、人間の生活に伴う炭酸ガス濃度が増え、人工的なフロンガスが浮遊するようになった。それも、この100年足らずの間に起こり、等比級数的に変化していると言う事だ。

■ゼロの恐怖

人は、理解できないもの分らない物に恐怖を覚えるものだ、ならば何故この現実に恐怖を覚えない?何十億年もの安定した大気組成が変わってきたのだ、こんな不思議な事はないと思わないのだろうか。

例えば、酸素濃度が1%増えると山火事の可能性が70%も増加すると試算されている。4%増えるともう最悪で、雷で直ぐ火事が起こり、地上は全て燃えてしまう。では減ったら?これまた同じで、陸上生物は死滅すると言われている。

■天才ラブロック

以上は、ジェームス・ラブロックのガイア仮説を解説した糸川教授の受け売りだ。ジェームス・ラブロックを知ったのは、30年ほど前、ラブロック博士についてはいづれ別に書くが、ラブロックのガイア仮説に出会い、そこで私の人生観はパチンとスイッチが入ってしまい、職業もそちらに変えてしまった。

ただし、環境運動に走り○○ハンタ~イとやっていたわけではない。むしろその逆側、当時世に出始めた環境アセスメントを業としたのだ、建設環境という分野の技術士資格はその時取った。何故これを業としたか、ラブロックは地球はまだまだ分らない、一時の学説に飛びつかずよく研究しろという。この辺の説明をするとめちゃめちゃ長くなるので結論を言うと、現実を冷静に見ると言う事だ。

その後、環境省や某都道府県の環境カウンセラーとなり、市民の環境運動の手伝いをしているが、そこで感じるのは、余りにも環境保護運動が情緒的である事、ただしこれは地域性もあるので一概に言えない。専門家が下を巻くどころかその道の権威が行っている環境保護運動もあれば、ただのムードでの活動と玉石混交だからだが、実感としては後者の方が多いように思う。

■環境運動の問題点

で、その環境運動だが、動物の命を大切にと叫ぶとしよう。だがステーキもヤキトリも旨い。食わなくても生きられるが現実には食う事は止められない。では旨いからといってアメリカンバッファローを食ったらどうなるか、或いは生態系の頂点を一度食ってみたいとオオタカをヤキトリにしたらどうなる。

これは極端な例だが、分りやすいだろう、需要や欲望がある限り、これを完全に消し去る事は出来ないが、必要最小限の所でバランスを取りムダな殺生や環境破壊は防げる。これが本当の環境保護活動ではないだろうか。

動かせない人間生活の現実を見る

現実を見ずして、ブロイラーとオオタカを一緒くたに殺生をやめろと叫んでも、オオタカは保護されない。食わねばならないから最小限ブロイラーは食うが、オオタカには手を出さないようにしよう、とするほうが現実的だろう。

勿論、そんなこと食われる側のブロイラーにしてみればトンでもない人間の勝手なランク付けなんだが、所詮人間の価値観で計った自然環境を論じている限り仕方ない。ともかくも、我々人間はこの地球上では勝手な生き物である事は間違いなく、ならばその勝手さをどこまで押えられるのか。押えられないなら結果の悪影響の排出を押える努力をするべきだろう。

組織と組織のぶつかりあいである戦争ならば、戦争ハンタ~イと叫ぶだけでも、その組織つまり国家の構成要素である市民の意思表明であるから、何らかの効果はある。しかし、環境問題は普遍的に地球上全てに共通してあり、それに悪影響を排出する人間もまた地球上いたるところに繁殖していて、個人レベルで生活水準を上げようとしているから、ハンタ~イだけではすまない。

この繁殖した人類は、モノスゴイ勢いでエネルギーを消費していて、国家社会としては生活の利便性を保障するのが役目であり、それが為政者の能力バロメーターでもあるから、幾ら環境に配慮するといっても、文明生活を棄て、石器時代の生活には戻れない。

■効率化と排出抑制

つまり、無駄を無くし効率化と排出抑制するしかないのだ。単純に出来もしないエネルギー消費を非現実的な水準に戻す事を叫ぶのは駄々に等しく、強制的にそんな状態を作らない限り起こり得ない。ではどういうときにその状態が起こるか、それは国家が崩壊し文明社会が成り立たなくならない限りムリだろう、つまり人類が滅亡しかけた時だ。

人類が滅亡しかけた状態を望むのか、滅亡しない事を望むのかだ。環境運動を見るとき、環境運動が目的ならば前者、環境を守ることが目的ならば後者だろう。環境運動は人類が生き残るための手段のはず、ならば当然に現状のエネルギー消費の効率化を図った上で、その限界を見極め、人類が滅亡しない事を具体的に考えるべきだろう。

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