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2007/03/05

夕日のバカヤローと地球環境

昨日は我友人が肥溜めに落ちたお話をいたしましたが、これは究極の循環型農業といえましょう、人が食べたものを排泄し、それで野菜を作ってまた食べる(おエッ!)。つい最近まで、日本人はなんと地球に優しい生活をしていたのでしょう。

3丁目の夕日と言う漫画には昭和30年代の東京の生活が描かれていて、お台場にもその頃の生活が再現されたテーマパーク的商店街があります。

この頃の東京では、まだ井戸がありました。勿論いたるところに砂利道があり、降った雨はそのまま地下に浸透し、井戸水となって人がくみ上げる、くみ上げる労力が大変だから必要最小限の水消費。しかも夏は冷たくて、冬は暖かいのです。おまけにオイシイ。

地球温暖化の危機があるからと言って、今更昔の生活には戻れませんが、この頃はTVも自動車もありました。今と大差ない生活です。違うのは、TVも自動車も高嶺の花、TVはともかく、たかがタバコを買いに行くのに自動車を使ったりしはませんでした。

また街中や家中の灯りが煌々としてもいなかった。それでも今と比べてそれほど不都合は無かったようです。その代わり、夜空には満天の星が瞬いていました。いつのまにか都会の空から満天星の夜空が無くなりました。

今、私はアノ夜空を見るため、毎月本栖湖まで出かけていきます。つい一昨日も行って来ましたが、何の天文知識も無い私は、満月をすっかり忘れていて、夜中の2時頃いつもの駐車場について夜空を見上げると、まーるいお月さんがまぶしい位に輝いていて、星が見えませんでした(正確には満天星とはならなかった)。

月明かりで、日陰ならぬ月蔭がくっきり。まあ、これはこれでロマンチックではありますし、夜道をなんだか得たいの知れない小動物や鹿が走り回っているのが見えて、わくわくするのでアリます。動物は別にしても、こういう夜空は、以前ならわざわざガソリン撒き散らして遠くまで行かなくても自宅で見れたものです。

なにやら、情緒的な話になってしまいましたが、昭和30年代の生活と今を比べた時、確かに便利にはなったけれども、失ったものも当然にあり、それを得る為に無駄なエネルギーを使っているように思うのです。

自然回帰といっても、TVも自動車も無い生活には戻れませんが、昭和30年代の生活なら我慢の範囲内なような気がします。この生活をベースに、エネルギー消費が大きくない利便性を足していけば、かなりエネルギー消費が少なくそれでいて快適な生活が出来るのではと思います。

昭和30年代の生活に、今の情報システムが加われば結構便利では?その代わりエアコンは無しです、イヤこれは無理かな?でも熱帯夜なんてのも無かったので、何とか過ごせたのです。この辺は鶏と卵論争になりますが、アノ頃の日本の電力は水力発電が主だったはず。それでも、程度の差くらいの結構文明的な生活であり、次元が違うほどの差ではないでしょう。

地球温暖化は切実な問題ですが、これを議論する時、いつも我々の生活イメージがすっぽ抜けていて、原発反対とかといった議論がでてきますが、原発が無いならではどういう生活をすれば良いかを議論しなければ、所詮得に描いた餅です。

私は原発容認派ですが、あくまでそれは文明生活を維持したうえでのクリーンエネルギーとの視点でのことです。原発は地球に太陽から届くエネルギー以上のエネルギーを地球内部で創り出すのですから、温室効果ガス云々以前に、地球単位で見たエネルギーの需給バランスが崩れている事は間違いありません。

ではどうすればよい?そのヒントが昭和30年代の生活ではないかと思うのです。これなら環境に優しいからと言って、元始生活を強いるわけではない。充分許範囲にあって、それに高度情報システムが加われば結構効率的で便利な生活が出来るような気がするのです。

一気にはムリですが、シナリオとしては、先ず①消極的選択で火力発電を全て原発に換え、内燃機関は法で禁止、全て電気モーターに変える。当然車は全て電気自動車。全ての内燃機関禁止が無理なら水を電気分解しそれを燃料の水素エンジンとする。②同時に、ダムを日本中に造る。脱ダムなどとは言わせない。無駄な道路を造るより過疎地に公共投資が行き渡り活性化の一石二鳥だ。③過疎地に人が住むことの非効率性、環境負荷増大の弊害を充分に議論し、都市居住を推進する。

物凄く大雑把に言えば以上です。機会があれば、詳しくお話しますが、ダムは決して「悪」ではないと思います。田中康夫の脱ダム宣言は必ずしもダムが無駄と言うわけではなく、県政単独収支の面での非効率を言っていただけでしょう。

過疎地にしても、過疎地=弱者のイメージで情緒的に捉えられますが、人間生活と自然との関わりで言えば、過疎地で文明的生活を営むことは、都市居住に比べ遥かに環境を破壊し負荷を増大させます。

例えば郵政民営化論議で、過疎地切り捨てかと怒る方がいますが、本来これほど無駄は無いのです。山奥の数軒の為に道路その他都市基盤を整備し、郵便や小包配達にガソリンを消費するのですから。こう言えば、必ず過疎切り捨てかとか個人の権利だと怒り出す人がいますが、それはまた別の論議、本来権利と義務は対なのです。

国家は国民に健康で文化的な最低限度の生活を保証しますが、それは国民と国家の契約でありその前提として国民の義務と最大多数の幸福があるわけで、そのバランスの上に成り立っている筈です。普通の国家ならば、国民の義務に国防があるのですが、この国ではそれが消え、強力な中央集権は帝国憲法時のままです。

このため、大都市で得た税収が地方にばら撒かれる現象が続いています。これを国土の均衡有る発展といいますが、私に言わせれば言葉のアヤです。均衡有る発展が日本全国同じような都市基盤整備を言うのなら、何故均衡有る発展が必要なんでしょうか。

もし、そんな理屈が通るなら、では何故都市計画に区域区分を設ける必要があるのでしょうか。少なくとも都市計画区域内は等しくすべきでしょう。自治体を単位とする都市計画レベルも全総も、国土においては同じです。国土全体は均衡ある発展と言いながら、個別の都市計画区域においては「整備開発及び保全の方針」を定めるとは論理矛盾です。

つまり国土の均衡有る発展とは、決して結果平等では無い。日本全国金太郎アメの街づくりや等しく都市基盤整備をすると言う意味ではないはずなのです。都市計画の理念を政治家が部分的に都合の良いように解釈して勝手に運用しているに過ぎません。

話は今日の主題から外れますが、過疎地対策とは、ばら撒き行政ではなく、過疎地を出るに出られない人が、都市に移住できるよう補助をすることであって。自らの意思で過疎地居住を望む方はそれなりの覚悟を持つべきでしょう。

例えば、過疎地への物資輸送コストは高くて当然ですが、過疎地に住まざるを得ない状況を解決しない限り、過疎地の住人にその負担を強いるのは不平等です。しかし、都市居住を可能ならしむる施策があって尚且つ、過疎地居住を望むのであれば、輸送の高コストや、都市基盤の不便さは自己責任として受け入れるべきでしょう。

過疎地居住が環境に良いとしたら、都市生活と切り離した生活を営む場合です。電気もねえ、ガスもねえ、そういう生活です。とにかく域外からのエネルギー供給は非効率ですし、風水力やバイオマス以外の自家発電はもってのほかです。

ただし、情報通信だけは別です。これは過疎地対策と言うより、国土の安全上、国土全体に網羅されてしかるべきだからです。たとえ日本アルプスのテッペンでも、携帯電話が繋がる事は、費用対効果以前に国防の観点からも必要でしょう。

さて、話を肥溜めと環境問題に戻します。昭和30年代の生活が環境に良い文明生活の指標になるのでは?と申し上げましたが、冗談ではなくまじめに考えてもよいと思うのです別に肥溜めを復活させるわけじゃありません。

TVも冷蔵庫も電話もありました。昭和30年代と言ったのはイメージし易いからで、もっと単純に言えば、繰り返しになりますが、日本中にダムを造れということです。こう言うと必ず、その建設の為にもエネルギーが消費され自然が破壊されるとか、言われるでしょう。それは何に価値を置くか、それと程度問題です。

反論のための反論を繰り返していく限り、間違いなく人類は滅亡の危機に近づいていきます。分っている事は温暖化は防がなければならないことです。その原因が温室効果ガスでは無いとする説が有りますが、ならばどうするかです。

そうであれば、温室効果ガスが原因であろうとなかろうと効果的な対策を検討すべきです。答えは簡単で、エネルギー消費を抑えることです。同様に簡単な答えがエネルギー消費は抑えられないです。さて、ジ・エンドでしょうか。いえいえ、ここで言う抑えられないエネルギー消費とは人間の使うエネルギー消費です。問題なのは地球上で受ける太陽エネルギーと人間が消費するエネルギーのバランスなのです。

であれば、今まで利用してなかった太陽エネルギーに起因するエネルギーを、人間の為に使えば良い訳です。こんな事はことさら言うまでも無くて、太陽光、水力、風力、波力発電、バイオマスエネルギー等々の必要性が言われています。

その意味では、先に述べましたように原子力は全く地球外から受けるエネルギー以外のエネルギーを地球上に生じさせるのですから、決定的にこのバランスを欠いています。ですから、この悪影響が無いとは断定できないでしょう。

原子力の持つ放射能汚染の危機は管理できますが、地球内部に新たに発生するエネルギーの影響はコントロール不可能に思います。ただしこの影響が本当にあるのかどうかは分りません。ただ少なくとも、何10億年もの間繰り返されてきた地球環境のホメオスタシスには無かった作用である事は間違いないのです。

ただし、では石油消費とどう違うかを考えると、何億年もの間に振り祖阻止だ太陽エネルギーが石油に姿を変えて地球内部に蓄積されていたので、これを掘り起こし、一気に消費している現状では、今現在を見る限り、地球に出入りするエネルギーのバランスを欠いていることには変わりはありません。

それ故に、温暖化に温室効果ガスの影響が疑われている以上は、C02排出抑制にプライオリティがある事は間違いないことなので、一刻も早く火力発電を原子力に転化する必要を感じます。それと同時並行に水力発電を推進し、可能な限り水力発電や、スタンドアロンでの太陽光発電を原子力以後も推進し、徐々に原子力発電に置き換える必要があるでしょう。

局所的な発想で、人類全体の危機を論じる事は、テロ以上に危険なことだと思います。テロならばその影響範囲は限定されていて対応も可能ですが、地球環境の問題は都市や国を超えてしまうからです。

肥溜めの話から、地球環境の話に飛んでしまいましたが、臭いものにフタをしても事態は解決しません、というお話でした。

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 地球温暖化が、世界中で多くの不幸をもたらしています。異常気象により被災者になってしまう人や沈み行く島に住む人々。絶滅してしまう動植物も・・・。  この不幸を回避するために、私たちは何が出来るのでし... [続きを読む]

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