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2007/08/13

真実の行方

お盆休みの今日この頃、特段大きな事件も無く、うだる暑さにボーっとする。そこで、エッセイでも。でも原爆の日に思う後に、脱力系は無いだろうから、先ずは今日のところ真面目なエッセイだ。と言う訳で、今日は、チョイ我々の生活で感じる問題点を考えてみよう。

さて、以前、拙ブログでは、日本は悪党国家であると言うようなことを書いた気がする。日本人は善意や正義に対しては物凄く過酷だが、不正や悪事に対しては寛容であると言う事だ。これは、何らかの形で大多数の日本人が不正に加担していると言う事なんだろうか。

■不正と告発、どちらが悪?

あなたの身の回り、会社でも町内会でも何でも良い、そこで何らかの不正が行われていて、それを誰かが告発した時、不正をした人間(=ココでは不正者といおう)と、告発した人間(ココでは告発者といおう)、どちらがその社会から嫌われるだろうか。

その不正が、殺人や痴漢、詐欺等のように犯人と被害者が特定された犯罪ではなく、被害者が不特定で、その利益が複数人にある所謂不正であるとき、日本では不正者よりも、告発者が忌み嫌われる。

■和と秩序?

その心は、「和」や「秩序」を乱すからだ。日本人はスポーツでもビジネスでも個人プレーを嫌い、チームプレイを尊ぶ。個人プレーは、抜け駆けと捉えられ「和」や「秩序」を乱すと思われているからだ。

どうも、日本人の価値観においては、「和」や「秩序」が全てに優先するものとしてDNAに深く刻まれているようだ。そのこと自体は、安定と正義を維持し住みやすい社会を創る上で、非常にスバラシイことだが、あまりにこれを優先しすぎてしまい、安定と正義という目的よりも、手段である「和」や「秩序」が上位に来てしまうようだ。

悪党どもの和と秩序を守っても意味が無いのだが・・・・。これ、本末転倒と言うヤツだ。原理原則よりも、形式や手段など枝葉ばかりに目が行ってしまう。だから何か議論するときでも、内容よりも勝ち負けにこだわってしまうから、怒鳴りあい、罵倒し合いに終始しがち。それはさておき・・・。

■告発者イジメ

不正の追求にしても、告発者の告発によって、不正が明るみに出るのだから、正義の味方としてヒーロー扱いされなければおかしいのだが、現実は裏切り者のように扱われる事が多い。牛肉業者の不正を告発した冷凍倉庫会社や、談合を拒否した業者など、悲惨なイジメに有っていても、誰も助ける事は無い。

■理解し難い矛盾

この現象は、なかなかに理解し難いものがある。何故なら、これら告発者は秩序を乱すものとして受け取られるのだろうが、本来秩序を乱しているのは不正者であるからだ。社会秩序を乱す不正を糾弾する事は、秩序を守る事はあっても乱す事はない。但し反対側つまり乱そうとする側から見ればジャマな存在、「秩序を乱す事」を乱すことになる。だから落ち着いて考えると、世の中ひっくり返っていると、混乱する。

■日本人は皆不正者?

と言う事は、告発者を裏切り者とか秩序を乱すとして、忌み嫌うのは不正者側ということだ、つまり日本人は皆、不正者ということになる。誰しもこう言われて良い気はしないだろうから、この辺は言い方が難しいが・・・・、残念ながら、そういう傾向はあると思う。

■楽な不正側とそのメソッド

こういう前提に、先に述べた本質よりも枝葉を重視する特質が加わると、このニッポン、正義の側より、何らかの形で不正の側についた方が、実に楽だ。故に、取り立てて意識しないけれど、不正には実に寛容な風土が出来上がる。

例えば、何らかの不正を糾弾された時、洋の東西問わず、外圧が加わらない限り、その社会自らが、不正を明らかにせずウヤムヤにする事はないが、日本ではそれが、極簡単に出来てしまう。そのメソッドは、取り立てて善良な一般人は意識する事が無いが、不正人たちは、これまた自然にそのメソッドを身につけている。

不正糾弾を回避するメソッド、例えば、バカバカしいけれど伝家の宝刀のごとく通用する、そのメソッドを挙げてみよう。

     その言い方はなんだ!

所謂、盗人猛々しいというか、指摘された不正には答えず、指摘の仕方に対して逆ギレするパターン。相手が警察ではこの手は通用しないが、それ以外の一般人同志なら、これは効果的。先天的後天的に関わらず、悪党はこれを危機回避のツールとしてバカの一つ覚えのように身につけている。そして情けないことに、これが世の中通る。

最も良くある例は、ヤクザの逆切れ、フーテンのトラさんだ。

「金返せだと、コノヤローなんだその言い方は。ちょっとばかし端金を借りただけじゃねーか、誰も返さねえなんて言ってねーだろ。それをなんだ、人をドロボーみたいに言いやがって。テメーこの落とし前どうつけるんだ。」とまあ、こういうパターンだ。

ヤクザばかりではない、極善良そうな一般市民でも、不正者はこういうパターンで逆切れを演じる。最近あった友人F氏の例をご紹介しよう。輪番制で町内会の副会長を仰せつかったF氏は、ある事業に関して、会長の不正支出に気が付いた。

そこで、「詐欺又は背信行為ではないか」と、責務としてそれを質した所、疑問には一切答えず、「同じ町内会で、詐欺だの背信だのという言い方は何だ!脅しではないか」の一点張りで乗り切り、「脅かされて怖くなったので、事業を中断して金を戻した」とも。

さすがにこの言い分が墓穴を掘り、「それって、レジから金を取ったけど、言われて怖くなったから戻したって、言ってるようなモンじゃないか」と住民の失笑を買ったそうな。

とは言え、この不正を働いた庁内会長、辞任要求を屁とも思わず、私は脅しには屈しないと言い放ち、平然としているとか。要するにウヤムヤと言う事だ。

②個人攻撃

伝家の宝刀2番目が、個人攻撃だ。上記町内会の公金不正流用のような「公」の不正の場合、特に行われるのが、告発者への個人攻撃だ。ちょっと考えれば、告発の事実と、告発者の人格は全く無関係なんだが、この苦し紛れの戦法は、日本全国で行われケッコウな効果がある。だから不正はやり得になるのだ

分りやすい事例で言うと、耐震偽装などその良い例だ。藤田東吾氏が耐震偽装と国交省を告発したが、彼が告発した事の真偽よりも、彼に対する個人攻撃にマスコミ始め日本人は終始した。彼が、電磁ナントカで有罪になろうと、そのことと告発した事実とは何の関係も無いが、見事ウヤムヤだ。

藤田東吾氏への個人攻撃は、面白いかもしれないが、所詮下賎な興味だ。それに大して彼が告発した内容は、日本中に影響を与える大問題、プライオリティの次元が違う。なのにこれだ。

個人攻撃で問題から目を晒すやり方は非常に卑劣で、そのこと自体自らの不正を告白しているようなもんだが、個人攻撃となると途端にスイッチが入ってしまう日本人のDNAは実に情けない。

非常に問題なのは、こうした場合、個人攻撃する側の不正に気付いた人々の反応だ。告発者側について応援すればよいものを、先ず例外なく冷めてしまう。これが不正者の思う壺だ、個人攻撃する事で、「公」の問題が、あたかも「個人」の問題に摩り替えられてしまうのだ。

例えば、談合と戦っている友人は、官業双方から総スカンだ。言わば彼は市民のために戦っているのだが、談合廃止を口にする市民でさえ彼を全く見殺しにしている。官と業は正論を言う友人に、正面から反論できないので、秩序を乱し地元に打撃を与えていると蔭で風評を流し、我事として深く考えない市民は彼の戦いを、彼個人の問題と捕らえてしまうからだ。

■不正の見分け方

ところで、かくも偉そうに言う自分はどうかと振り返ると、実は自分自身知らず知らず、そういう傾向に染まっていて愕然とする事がある。朱に交われば紅くなるのだろうか。

物事、様々な考えがあるから正邪はそう簡単には断定できないけれども、不正はルール違反だから明確に判断できるはず。これが誤魔化されると言う事は、ひとえに知識か関心の不足。ではどうやったら、「個人攻撃」や、「その言い方は何だ」に惑わされないか。

それは、「個人攻撃」や、「その言い方は何だ」に対して、拒否反応を身につけること。これらの論法は、本質的に論点を外す卑怯なやり方なので、こういうことを言う事自体が、自らの不正を意識している証拠だからだ。やましいところが無ければ、堂々と反論すればよい。

分りやすい不正ならば、直接自分の目と耳で不正を判断できるが、分りにくい場合は、不正者が一番、己の不正を知っていて、その不正が、言い逃れが困難であればあるほど、この二つの論法に走るので、それで判断できる。

余談だが、先の友人の話で、不正を追求されて会長は、個人攻撃しようにも、友人に何も問題がないので、友人が不正の核心に触れる質問をすると、録音を前提に「直ぐそうやって、ヤクザか暴力団みたいに脅かす、怖くて町も歩けない、あー怖い怖い。言い方がどうあれ、言われたほうが恐怖を感じたら脅迫になるんだ、ちゃんと録音されてるぞ」と言ったとか。生兵法は怪我の元というが、バカに付ける薬は無いようだ。

本日これにて。

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