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2007/08/31

免れて恥ずること無し

昨日に続き、名古屋女性拉致殺害事件など、尽きない新たな犯罪について考えたい。死刑になるのが怖いという思考判断も出来るのに何故?犯罪を犯すのか、という点だ。

■意識の問題

これには根本的な意識の問題ではないのかとの疑問が湧く。法やルールで人の行動を規制しても、根本的な意識、人間性に問題があれば、あまり役に立たないのではないか。人殺しはいけないことと分かっていても、一度兵士となって戦場に赴けば鬼畜のように人を殺しまくるように、何かのきっかけで心のタガが外れると、人は鬼畜になる。

■バレるかバレないか

性善説に立てばそうはならないのだろうが、現実社会を見るとそう考えざるを得ない。これを性悪説というのかどうか分からないが、身の回りの人々を見ても、犯罪行動の抑止力が絶対的な善悪よりも、人が見ているかどうか、バレるかバレないかにある事が多い。程度の差こそあれ、恥ずかしながら私自身にもある。

100円を届ける?

小生、道で拾った100円を私は交番に届けない。たかが100円のためにメンドクサイからだ。1円なら拾わないこともある。届けるどころか、拾うことがメンドクサイからだ。実際に100円を届ける人はいないだろう。

■では財布は?

では、財布が落ちてたらどうするか。正直に言うと私は道端だったら知らんぷりする。財布ともなれば中身が幾らであろうと交番に届けなければならないだろうから。褒められると思って一度交番に届けたらトンでもない、オッソロしくメンドウな手続きに時間を取られ、不愉快な思いをしたからだ。以後、君子危うきに近寄らず、拾わないのは罪ではあるまいと、知らんぷりすることにした。

■だが、財布を落とした人は困っている

だが、財布を落とした人は困っているだろう。まして其の中身が全財産だったりしたらなおさらだ。見て見ぬフリをしても、天と我は知っている。次に見つけた人がネコババするかも知れない。と考えると、拾わない事は罰せられないだろうが、見て見ぬふりをする事は罪ではないかなとも思う。

■母の咎め

でも、道端に落ちてる財布を発見することなんて人生にそう何回も無い。自分の記憶では3回だ。一回目は子供の頃見つけ、大金が入っていたので、通りがかりのオッサンに落ちてたので交番に届けてくださいと渡した。これを母親に話したら、エライ咎められた。

■届けたら・・・

2度目はオトナになってから。これはちゃんと届けたが、まるでコチラが犯罪者課のような警官の態度にぶち切れた。だが良く聞くと、所定の事務手続きを淡々とこなしていただけ。で、その後3回目は、知らん振りしたが、それも後味悪く、今申し上げたように反省しているが、幸いその後は道端の財布に出くわしてない。今後も出くわさない事を祈るばかりだ。

■法に触れなければ何をしても良い、しなくても良い?

話が個人的なことに逸れてしまった。言いたいのは、「拾わない事は罰せられないだろうが、見て見ぬふりをする事は罪ではないかと思う。」ということだ。法に触れる事はしてはならないが、法に触れなければ何をしても良い、或いはしなくても良いのかということだ。

■免れて恥ずること無し

「免れて恥ずること無し」とは論語の為政第二にある有名な句らしい。現代語にすると「法を整備しても、人はその網をすり抜ければ良しとして、悪事を恥ずかしいとは思わなくなる」ということだ。

■法治国家?

孔子は「法で治めても国は良くならない。徳で治めるべきである」と言っている。あまりのも古くからの教えであり、その後出てきた民主主義、自由主義、法治国家、人権主義などに言葉に圧倒され、単に古いと思っていたが、どうもそうでもなさそう。慧眼とはこういうことではないかと思うようになった。

■匿名?

インターネットが普及するにつれて、その匿名性が、人の性悪説を浮き彫りにしているようだ。2ちゃんねるはじめ、掲示板によく見られる、書き手の人格を疑う記述は、正に匿名性ゆえだろう。だが、匿名でもキチンとした節度ある書き込みも多い。

■結局は個人の資質

結局この差は、個人の資質の差だろう。育った環境の差が大きい事は想像に難くない。この親にしてこの子有り、とはよく言ったものだ。社会の最小単位はこの家族だろう、ならば最大単位は国家だ。同じ構図は国家にも言えまいか。この国家にしてこの国民アリと言う訳だ。

■オトナ不信

子供の頃、やたら道徳教育がなってないとオトナ達が憤慨していた。それを聞いて、何が道徳教育だ、何が今更二宮金次郎だ、ばっかじゃねーかと思っていた。そんな事を言うオトナ達、とりわけ子供心にも教師の質が悪くて、オトナ不信だったからだ。

■謙譲の美徳?

とはいえ、車の接触事故なんかあると、今のようにいきなり怒鳴りあいと言う事はほとんど無くて、「ゴメンナサイだいじょーぶですか」「いえいえ、こちらこそ」みたいな感じだった。ハラの中はどうか知らないが、先ずはスミマセンから始まったものだ。

謙譲の美徳とでも言うのだろうか、これは自動車を持っているのがお金持ちで、心に余裕があるからという訳ではない。交通事故に限らず、日常、子供心にも、ナンデお互いに謝ってるんだろう、言いたいこと言えば良いのに、と思わせる場面が多かった。

■オイルショック以後

それが、オイルショックの73年、為替レートが1ドル360円の固定から変動性になったこの年あたりから、海外渡航が一般化し、TVなどではアメリカで事故を起こしたら絶対謝ってはいけないといわれ始めた。

ちょうど、カローラやサニーなどの大衆車が行き渡り、一部の富裕層だけが持っていた自家用車が大衆化した事と交通事故の増大とあいまって、アメリカ流の謝らない風潮が一気に日本中に蔓延したように思う。

■平気でウソを付く人

ここ10数年間は、交通事故にあってないが、過去の事故を振り返ると、平気でウソを付く人が少なからずあった。自分を有利に導きたいという気持ちは分からないではないが、今この場で起こった事は、ウソをついていると直ぐに辻褄が合わなくなる。

例えば、コンナことがあった。中央より2車線が右折レーンの交差点で左側の右折レーンを走る私の車に、右側の中央よりを走ってきたバイクが突っ込んできた。要するにスピードを出しすぎて曲がりきれなかったのだが、ライダー曰く、車がいきなり曲がってぶつかったと。

だが、自分で指差した衝突場所は右折レーンのカーブの外側。聞いていた警官が、じゃキミはここを直進しようとしたのかで、墓穴掘った。人の心の内は分からないが、何故コンナ直ぐにウソと分かる事を言うのだろうか。

たまたま、警官がいて、鋭いツッコミをしてくれたので助かったが、第三者がいなければ、平然とウソを主張し続けたのだろう。だが少なくとも、天知る、君知る、我知る。天とは良心のこと、良心がないのだろうかと不思議な気がした。

■風潮の増大

こういった事は、この例のような個人的な交通事故に限らない、世間全体を騒がすような事件や出来事でも、当事者は真実を知っているのに、話が個人の問題に矮小化されたり、すりかえられてウヤムヤにされてしまう。そういう風潮が年とともに増大しているように思う。

拙ブログで散々取り上げた、耐震偽装問題などはその最たるものだ。どんな意とぼけたって、当事者は、誰が悪いか、何が原因或いは遠因かは、ちゃんと知っているハズ。そして起こったことを客観的に分析すれば、当事者でなくとも辻褄の合うこと合わない事は直ぐに分かる。

例えば、アパは、1年前から偽装は無いと、藤田東吾氏を告訴するとHPで公言しておきながら、その後偽装が発覚、当然ながら告訴もしていない。これって、明らかに脅迫だ。だが、問題が、藤田東吾氏個人のケンカに矮小化されてしまったので、オレには関係ないとばかり皆、本気に考えない。

■ばれなきゃ良い

本気に考えないから、脅迫だろうとウソだろうと何を言ってもヘッチャラ、印象操作だけやって、ウソもばれなきゃ良い、上手く言い逃れ出きれば良い。こういう風潮が、ますます強くなってきたように思う。

■世渡りのツールと化した法

こうなると、法は社会秩序を守るというより、上手く泳ぐためのツールと化してしまう。それどころか、法の運用すら恣意的になってしまい、共通ルールとしての機能を失いつつあるように思う。あくまで当方の勝手な主観だが、昨今の別件逮捕や痴漢冤罪疑惑に関する判決など、首を傾げる判決が多いからだ。

■司法関係者への疑問

人を捕まえ裁く、検察官や裁判官の人格に疑問を感じるのだ、或いは弁護士も同じ。ともかくも警察官から裁判官まで、法に関る人々に、はたして良心や正義感があるのだろうかと疑問を感じること、少なくない。

警察官採用試験や、司法試験では良心や正義感は測り得ない。故に制度や法だけではどうにも対応しきれないのだろう。法や制度で秩序が保てるなら、人々に法を守る精神があってこそだ。順法精神が無ければ、法や制度はルールとして機能しない。

■道徳教育の必要性

今の日本は、かなりそちらの危険水域に入ってしまったようだ。警官がストーカー行為の上、相手を銃で殺害するなど、一部のイカレポンチの犯行では済まされない。警察制度発足以来の有得べからざる事件だからだ。

これはもう、日本人の精神が荒廃したからと考えざるを得なくなった。こういうジジ臭い言い方には、昔から抵抗あって嫌だったが、残念ながらそういわざるを得ない。故に、先ほどの孔子の言葉に重みを感じるのだ。

「免れて恥ずること無し」

道徳教育なんてコトバを聞くと、人の心の在り方に国家が一々関与するなんて、軍国主義になるんじゃないかと、拒否反応を示してきたけれど、法を守る精神が無ければ、元も子も無いことにやっと気が付いた。

本日これまで。

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コメント

Ganbarefujita様、コメント有難うございます。

>どうも最近は「自分(達)さえよければ」的考えが「他人に迷惑をかけない」的考えよりも多くなってきたのかな?とも思えます。

仰るとおりです。かと言って、あまり倫理とか道徳を振り回すと窮屈になってしまうのも事実。倫理倫理或いは道徳道徳と言えるほど、私自身清廉潔白ではありません。もしお金を拾ったら届けるか躊躇するかもしれないし、美女にモーションかけられたら浮気しない自信はありません(←ってエバッてどうする)。正直に言おう、立ちションもやっちゃいます。要は、程度問題という事ですよね。これは基本的な生き方の問題ですが、やはり世の中、バランスが前者よりになっているようです。

これは天に唾するようなもの、集団で「自分(達)さえよければ」的考えや行動をしていても、何時自分が迷惑を蒙る側になるか分かりません、結局は自分の首を絞めているのですね。

投稿: ベンダソン | 2007/09/03 13:56

10年前、父がなくなり、その翌年に母がなくなりました。
この時決定的に世の中が変ったことを実感しました。父と母が亡くなった1年ちょっとの間に、家に届くDM等の量が大幅に変ったのです。それは、かなりの量の違いでした。香典返しなどのカタログや、仕出関連などのチラシなどがほとんどだったようにお思います。

10年前までは「人の不幸をビジネスにするものではない」といった意識があったのだと思います。

また、お恥ずかしい話ですが従兄弟が窃盗傷害で8年程前に捕まりました。その従兄弟の親(叔父)は中堅企業の役員をしていて結構裕福だったのです。従兄弟は親と同居していたのですが失業して生活費がなく犯罪を犯したらしいのですが・・・私だったら、まず親に頭下げるか?親を騙す?で親兄弟からお金を引き出すことを考える(笑)のですが・・・まったくの他人から盗んだりなんか、どう思考してもありえません。「他人に迷惑をかけるものじゃない」という教育をされてきたような気がします。逆に親に迷惑はかけましたが・・・・

どうも最近は「自分(達)さえよければ」的考えが「他人に迷惑をかけない」的考えよりも多くなってきたのかな?とも思えます。

会社で「職場の教養」という「倫理法人会」の本を毎月購入して社員向けに道徳教育をしています。
家庭や教育、世の中が「道徳」を教えなくなったので、企業が「道徳」を教える必要性が出てきているように思います。私達のような中小企業でも、このような企業努力をしているのですが。役所や公務員などは道徳教育をしているのかな?このような面では、この国の将来がかなり不安になりますね・・・

投稿: ganbarefujita | 2007/09/02 19:52

パワーブログランキング運営委員会様、コメント有難うございます。
と、言いたい所ですが・・・、

>本来ならば、メールにてご挨拶するべきですが、貴サイトにおいてはメールフォーム&メールアドレスが確認できませんでしたので、コメント欄にて失礼いたします。どうか、ご了承ください。

とは?
当記事では「免れて恥ずること無し」と書いたばかり。ありがたいお誘いかもしれないが、当方関心無し、記事に無関係な書き込みは、削除させていただきます、と言うわけで削除ネ。悪しからず。

投稿: イザヨ・ベンダソン | 2007/08/31 23:09

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