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2008/04/26

続:光市母子殺害事件判決に思う

4/24の拙ブログに光市母子殺害事件判決に関する記事を書いたが、コメントをいただき、それに対する見解を書いているうち、この事件というより社会風潮に対する問題提起でもあるので、記事としてエントリーすることにした。

たぶん読者の方のご意見、その真意は木村氏批判にあるのではなく、

「たとえ、本村氏が被害者であっても、マスコミが批判されるのであれば、その一部が本村氏に飛び火してもおかしくないはずです。なのに、本村氏への批判は、表向きにはまったくされていません。もちろん、突っ込みづらいと言う点はあるでしょうが、そういう意見もあるべきです。」

と言う事ではないだろうか。

もっと私なりに咀嚼して言えば、被害者が、広告塔として利用され、冷静な意見が、かき消されてしまう事を危惧されての事ではないだろうか。

とすれば、その恐れは充分にあるし、実際既にそうなっているとも思う。外形的には、殺せ、殺せの大合唱に見えて、ある種恐ろしさも感じられよう。そこだけ見れば、実に嫌な世の中だ。

その一方、逆もあり得る。何かのきっかけで一転、被害者である本村さん批判の嵐になることだ。恐らく大衆は、事件の背景や判決の持つ意義なんて事に関心があるのではなく、心情的に残虐な犯行の被害者に同情し、その被害者としての素直な心情の吐露に感動しているのだと思う。前段はともかくも、この被害者に対する同情や共感と言う点では、私も大衆の一人だ。

ただ、こう言った同情を原点とする共感は、絶対的な論理あってのことではなく、情緒的で相対的なもの、つまり自分達と比べて相対的に不幸な被害者であってのことだと思う。さらに言えば、同情すること自体、自分を被害者より上に置いているかもしれない。

それ故、被害者が絶望のどん底にあるうちは、皆同情するが、相対的に被害者の「幸」や「益」が見えてきたり、「上からモノを言う」ような印象を与えると、たちまち「何様か」とばかりに批判の嵐となるだろう。こう言った例は、今まで枚挙に暇がないと思う。

今の所、被害者本村さんには、そう言った兆候は全く見られない。悲劇の被害者として有名人となっても、ベストセラー作家になって稼ぐ事もなく、犯罪被害者の会といった社会活動のみだ。

そして、いつも感心するのは、「自分がこんな目にあっているのに、世間のアンタ達は・・・」といった、大衆批判を一切しない点。彼の批判は制度と犯人に限定され、常に淡々と、犯人に対する自己の心情のみを素直に吐露するので、「可愛そうな」部分のみ、大衆は常に第三者であり反感を買う要素が全く無いのだ。

フツーなら、これだけ有名になれば、何かとやっかまれ足を引っ張られるもの。故に完璧と感心するのだ。

ただ、忘れてはならないのは、仮に本村さんが、人の同情を集めようが集めまいが、或いはその論理が正しかろうが矛盾していようが、「極限の苦しみ」を味わった残虐な事件の被害者遺族である点には何の関わりも無い事だ。

極端な仮定をすれば、本村さんがロクデナシのヤクザで、「犯人が死刑にならなかったら、裁判官をぶっ殺す」とか「世間はクソヤローだ、テメーらもオレと同じ体験してみろや」なんて発言してたら、皆引いてしまうだろうが、それでも、残虐な事件の被害者遺族である点において変わりない。

といったところで、話を最初に戻して、「冷静な意見が、かき消されてしまう事」に関しては、本村さんが、被害者遺族ではなく第3者ならともかく、正に被害者だから関りはあるけれど、本村さんには何の責任も無いと言う事。

もっと言えば、先のヤクザの例えのように、被害者なんだから無茶苦茶なことを言っても良い。その発言に矛盾があろうと無かろうと、犯人とその裁判に関する限り、「極限の苦しみ」を受けているので、何を言っても許されると思う。

もし、そこに被害者である本村さんが「冷静な意見が、かき消されてしまう」として批難されるならば、「極限の苦しみ」ではないか、言論弾圧となる。「極限の苦しみ」には誰しも異論無いとすれば、後者となり、批判する事自体論理矛盾だ。

以上が本日の結論。

あと、ついでに言うと、荒唐無稽とされる被告の新証言だが、これが以前から供述していたか否かで、弁護団の示唆が取りざたされているけれど、ドーでも良いように思う。

被告が言う「生き返らせる儀式やドラえもんの奇跡」を、本当に思ったとして、それをもって殺意が無い事の証拠となるならば、もう何でもアリとなって歯止めが利かなくなる。

被告がそう考えとたという事は、真実かもしれないが、考えた内容は真実とはいえまい。現実に起こりえないこと(=生き返る)を考えた事が、現実行動(=殺人)に至った意志を否定できるのなら、現実の起こり得そうな事を考えたり行動すれば、間違いなく現実行動(=殺人)に至った意志を否定できることになる。

例えば、人を殺しておいて、殺すつもりは無かった、まだ生きてるから救急車をと119番すれば、殺意は無いことになる。何しろ、仮にその時点で死んでいようとも電話した時点で死んでいたかなんて証明できないから、儀式やドラえもんより遥かにリアリティがある。

未必の故意なんてのも証明が困難だろう、人の頭をバットで殴っても、まさか死ぬとは思わなかったで済むだろう。線路に人を突き飛ばしておいて、まさか逃げないとは思わなかった、死んじゃったの?で済むか。

また、被告の置かれていた環境は、確かに同情に値するけれど、それをもって情状酌量されるべきか否かは、事件の残虐性や異常性を考えると正直なんとも判断が付かない。何故なら、このヘンは主観的判断だけれども、その残虐性や異常性が私には限度を越えているようにしか思えないからだ。

これを定量的に表現すると、死刑の評価基準がマイナス50として、この事件の残虐性や異常性の評価がマイナス100、情状酌量がプラス10とか20と言った感じ。故に、被告の育った環境には同情し情状酌量しても、結果は同じと言う気がしてしまうのだ。

これは殺害方法の表現にしてもしかり、検察側が意図的に残虐性を強調していて、事実は躊躇していたとしても、死姦し赤子を殺害した事実の前では、検察のやり方が批難されても、それが判決に対してあまり意味があるとも思えない。

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コメント

こんにちは。

http://fukutomim.iza.ne.jp/blog/entry/555219/
http://fukutomim.iza.ne.jp/blog/entry/555243/
上記のブログの内容こそ、報道されるべきであると思います。

投稿: ぺす | 2008/05/07 16:32

すいません、わざわざご丁寧に返答していただいてありがとうございます。

そうですね、裁判内容についてからですね、私の主張していることは。

今回のコメントにはほぼ相違ありません。確かに、弁護側のドラえもんとかいう話を出してきたことは、かえって裁判における被告人への印象を悪くしてしまったことは否めません。その点は弁護側の戦略の失敗だと思います。

私自身は、何度も書いてきたように、仮に検察の主張がすべて正しかったとしても、本来は無期懲役の判決が下される裁判であるべきであって、それが何かしらの理由によって、死刑になったとするならば、それは、いくら世論がそう望んだのだとしても、「論理を考える人間が裁判官をやっていない」ということを露呈することであり、それはいくら知識があるとしても、司法の人間としては致命的だと思います。

まして、死刑判決が出たことによって、喜ぶ一般市民なんて、通常の神経では考えられません。なぜ喜ぶのか?

ちょっと脱線するようですが、私は死刑廃止論者と言えばそうかもしれませんが、しかし、一般的な死刑廃止論者とは考え方が違います。

私は過去に精神科の中に携わってきたことがありました。すると、死にたいという患者はたくさんいましたし、それゆえ、自傷・あるいは他傷行為をする人たちとも接してきました。

SSRIの副作用による問題もありますが(既にアメリカの銃乱射事件などで、このSSRIによる影響は司法で認められています)、何よりの問題は、自分が経験した理不尽さを理解してくれる人が近くにいないことです。そして、鬱病となってしまうと、その責任は患者本人にあると古い体質の医者などは決めつけます。

すると、彼らは当然死にたくなるんです。生きることに絶望してしまうんです。

つまり、今回の事件とは違うかもしれませんが、死にたい人に死刑を処すことは、むしろ被告人にとっては願ったりかなったりなわけです。

なので、特に、死刑廃止論がなかなか浸透しない日本くらい、死刑が無駄な国は無いと思っています。なぜなら、「世界でも有数の自殺大国」だからです。

もし、死刑を容認したいのであれば、死にたい人が出てこない、生きることに希望が持てる世の中にしなくてはならないんです。

生きることに希望が持てるからこそ、死に対しては恐怖心が芽生えるんです。

死に対する恐怖心が無い人、強いては「生きることに希望やうまみを感じない人」に処する死刑くらい無駄なことはありません。

罰の基本は、苦しめることとが第一で、その次に更正です。

死刑というのは、後者である更正が成り立たないことが何よりの理由になるはずなんです、本来は。更正できていないのにシャバに出したら、再び危険が及ぶわけですから。

しかし、これは第一理由にはなりません。罰則の第一理由は、あくまで苦しめることです。何かしらの方法によって苦しめることによって、相手の苦しみを理解させることにあります。

昔は釜ゆでとかありましたが、今では懲役や禁固などになっています。もちろん、それが十分かどうか?は私も無知なので断言はできません。

しかし、何度も言うようで恐縮ですが、死刑というのは「死に対する恐怖が芽生える世の中」に今の日本があることが絶対条件なんです。

なので、自殺大国日本で死刑制度を支持するということは矛盾なんです。

生きる希望が無い人に、死刑を言い渡したって、罰にはならないんです。

それならば、生きて苦しめることの方がよっぽど罰になるんです。

罰則は、肉体だけに与えるものじゃないんです。

そこから考えると、やはり、本村氏が最初に死刑を望んでいたことと、後になって終身刑が良かったとか言う話というのは、矛盾に思えて仕方ありません。

なぜなら、最初に死刑を望んだのは、何より、「被告人に更正の余地が無い」と感じたからではないでしょうか?

しかし、死刑判決が出た後に、なぜか本村氏は「更正して欲しい」という旨の発言をしたんです。

だったら、最初から死刑を求めなければ良かったんです。あくまで「現行の法律における最も厳しい判決」を望めば良かったんです。

私は、これを含めて、死刑判決が出た後の本村氏の発言には、強い矛盾を感じました。

確かに態度は毅然ですし、被害者ではあるのでしょう。しかし、言葉の節々に、強い矛盾を感じてしまったことも事実です。

まだ、最高裁の上告審が残されているものの、もはや判決が覆るのは難しいでしょう。

ちなみに、最後に感じたのは、広島高裁の死刑判決が出た後、被告の元少年は、表情1つ変えず、ただ、裁判終了後に遺族の方に向かって深々と一礼したそうです。

やったことはやったこととしても、それが今の被告を表していたのではないか?と思います。

本当に、テレビでやっていたような、「どうせ無期懲役ならすぐに出所できるだろ」というようなことを手紙に書いていたような人物ならば、ほぼ覆りようのない死刑判決を受けた後に、冷静に対処できたでしょうか?

その点も不思議でしょうがありません。

毎回、長々書いてしまって申し訳ありません。

最後に、人間、誰しもが死に対して恐怖心を持っているなんてのは間違いです。

そういう世の中で、一人一人が、生きることに希望やうまみを感じているからこその「死に対する恐怖」であるということを私たちは実感しなければならないんです。

硫化水素自殺をする人たちだって、結果的には周りに迷惑をかけてしまうものの、せめて、死ぬ時だけは周りに迷惑をかけまいと、張り紙をして注意したりします。変な言い方ですが、誰よりも必死なんです。

今の流れというのは、そういう人たちを否定することばかりです。

それが許せません。

改めて長々と書いてしまってすいません。


投稿: とし | 2008/04/27 19:18

とし様、いつも真摯なコメント有難うございます。

論点は、当初本村さんの発言が完璧か否かかと思っておりましたので、これについて述べさせていただきましたが、その後、とし様の論点は裁判そのものにあると思いました。今回のコメントをでもそう思いました。

で、裁判そのものには幾つかの論点があり、①マスコミ報道の恣意性、②検察の恣意性、③判決(永山基準超)の妥当性でしょうか。拙ブログで当初①と③について述べ②には触れておりませんでしたが、知りえる情報で経過を見れば検察の恣意性は問題有りと思っています。

ただし、裁判所は、検察の恣意性(殺害方法等)よりも、弁護側の主張(殺害時の手の位置等)を退けましたが、何故検察側の主張を取ったのかが分りません。ご指摘のように裁判の過程を調べてもよく分らないのです。これは本件に限らず冤罪事件等不当裁判とされる事件に常について回る苛立ちです。

つまり、表層的には、マスコミが検察寄りなので、関心を持って調べると、弁護側の主張には直ぐ出くわし、検察の恣意性や欺瞞性が浮き彫りにされるのですが、そこから先の、冷静な情報が出てこないので、今回もそーですが、それがいつも歯がゆいのです。

それだけの情報(=逆に弁護側ばかりの情報)で判断する限りでは、裁判のあり方があまりにもお粗末過ぎるのに、何故か裁判官は検察の側に立つ、と言うのが一般的な流れです。

しかし、このような知識レベルで本当に裁判所が簡単に検察寄りになるとしたら、裁判官は救い様のないバカとなり、まあ、そう言い放てば気分が良いけれど、はたしてホントにそんなバカが司法試験に受かるだろーかとも思ってしまうのです。

今回の事件でも、殺害時の手の位置や、赤子の殺害方法等は弁護側の主張にも一理あり、そもそも論で言えば、殺人罪であったとしても長山基準からして無期が妥当だろうとも考えられます。

これに対してのマスコミ報道はどーかと言えば、むしろ、この事件に関しては民衆レベルでの、殺せ殺せの大合唱が先行していて、珍しくマスコミの方が冷静かなと思います。実際今朝のTV番組でも、元被告側弁護士が出演し、一応その主張や、検察と弁護側の食い違いも冷静に報道していたように思いました。

長々と書く時間が無くなってきたので、結論を述べると、この裁判で「儀式やドラえもん」を持ち出したのは致命的だと思います。殺害時の手の位置や赤子を床に叩きつけていない等を論点にしている限り、殺意が無かったかもしれないと、その殺意亡き可能性は否定しきれなくなるのですが、「儀式やドラえもん」なんていう荒唐無稽な話が出て来てしまうと、もうそういう話なんかど-でも良くなってしまうのです。

差し戻しには新証拠が必要ですが、大きく俯瞰して事件を見た時、素人から見ても、これはあまりにもムリがあると思いました。量刑の妥当性については、なんとも断定的なことは言えません。

そもそも永山基準が妥当かどうかも分りませんし、それ自体が問題になっているわけですから・・・。今後同種事件で永山基準が復活したらこれは問題ですが、今回の判断が新たな基準となるなら(私はこの前提で全てを語っています)、それは社会の新たなルールでしょう。

私の中では、元来、この事件に対する集団ヒステリー的な世論の動きに危機感を覚えていました。また橋本弁護士が懲戒請求を呼びかけるに至っては正気の沙汰とも思えませんでした。しかし弁護側が「儀式やドラえもん」を持ち出した瞬間から、あっ全て終わったなと思いました。

本文にも書いた様に、これをもって弁護団を批難するつもりはありません。むしろ弁護団の純粋さ正直さがが招いた悲劇的結末だと思っています。これは私の勝手な推測ですが、当の本村さんも予想外の展開だったのではないでしょうか。

投稿: ベンダソン | 2008/04/27 15:07

すいません、わざわざ記事にまでしていただいてありがとうございます。

ただ、正直言いますと、まだ、論点のずれがあるように思います。

先の記事に対するコメントにも書いたように、できることならば、裁判の経過をご覧になっていただきたいんです。

ちなみに、私は別に、被告人の少年が、今回の流れの中で無罪になって欲しいなどとは思っていませんし、おそらくは無期懲役が妥当ではなかったのか?と思います。

私は常に「4回ひっくり返せば表になる」と考えています。

つまり、コインなどは2度ひっくり返せば表になりますが、しかし、例えば今回のように、原告がいて被告がいる場合、第三者である私たちは、「原告の裏と表」「被告の裏と表」を組み合わせた最大4パターンのケースを考えなければなりません。

しかし、私たちは、メディア報道などによって、必然的に被告人しか見なくなりました。結果、「被告人の裏と表」だけの2パターンだけを見るだけとなってしまい、その被告人の裏の部分を、それが本当かどうかは別としても、見せられることによって、今回のような扇情的な流れになってしまったと考えています。

話を元に戻しますと、裁判の中身をご存じですか?特に、被告人の少年が本村氏の奥さんと子供を殺したとされる経緯を裁判で発言していたものをご存じですか?

できれば、それを見ていただいた方が、有罪無罪に関わらず、今回こうしてしつこくて申し訳ありませんが書いてきたのか?というのがおわかりになると思います。

http://blog.goo.ne.jp/kaetzchen/

このブログに書いてある裁判の中身を参考にしてみてください。このブログをやっている方の私情とか主張は別として考えても良いです。要は、裁判における『殺害時の状況』について、私たちが何も知らされていなかったことが書いています。

つまり、テレビ報道を見ていた時の私も、ペンダソンさんも、まだ裁判の感想を述べられるほどの情報を知り得ていないということです。

私は別に、どちらかを否定したいとかそういう意図では書いていません。

第三者である以上、できる限り、知り得る情報は原告の側の情報であろうが、被告の情報であろうが、十分な量を知った上で判断しなければならないということが言いたかったんです。

特に、これだけメディア報道が煽動していたことがはっきりしている件に関してはなおさらです。軽く考えられるものでは決してありませんから。

長々書いてしまって申し訳ありません。

投稿: とし | 2008/04/26 18:39

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