« 「終わりの始まり」~序章の2 | トップページ | 「終わりの始まり」~序章の4 »

2008/07/19

「終わりの始まり」~序章の3

21世紀になり、それまで未開といわれていた地域は地球上にほとんど無くなり、貧富の差による程度の差こそあれ、エネルギーの大量消費は世界共通のライフスタイルとして定着した。

例えば、ゲゲゲの鬼太郎の作者水木しげる氏は、その自叙伝の中に、戦争中南方戦線で理想郷と感じた原住民の生活だったが、後年訪ねた時、自動車や電気が不可欠となっていた生活にガッカリしたと書いていた。土人達の生活さえも、既にエネルギー消費が前提の文明化をしていたのである。

エネルギーの大量消費があって、そのエネルギーが、温室効果ガスによって大気温度を上げているとするならば、①エネルギー消費を減らすか、②温室効果ガスを減らすか、これ以外には人類存続の方法は無い。

もしこれ以外の議論があるとすれば、その前提の否定しかありえない、つまり温室効果ガスの否定だ。だから、温室効果ガスが温室効果の原因ではないとするならば、その事を証明すればよい。

ただし、それだけでは、CO2などの温室効果ガス削減運動を阻止は出来ない、コレを阻止するには、CO2削減が地球環境に害がある事を証明しなければならない。仮にCO2が温暖化と無関係であったとしても、削減する事が害ではない限り、削減運動を阻止しなければならない理由にはならないからだ。

というか、CO2削減はそもそも、地球自体が何億年もの間保ってきた本来の自然な状態に戻すだけであるから、害が有るなんて事は論理矛盾となるので、考える事自体無意味である。だから地球温暖化の原因がCO2であろうと無かろうと、削減する事は悪い事ではない。

また同じく前提の否定としては、温暖化そのものの否定がある。太古の歴史から続いている地球の氷河期~温暖化サイクルの変化の中での温暖化であり、自然現象であるというのがそれだ。

だが、この論理は、地球環境変化の説明の1つであって、地球環境変化の評価とは関係ない。温暖化が自然の摂理であろうと無かろうと、人類が受け入れられるか否かが問題であるからだ。

かつての氷河期で恐竜が絶滅したが、この恐竜を人類に置き換えたとき、いくら自然現象であるといっても人類は受け入れる事は出来ないだろう。だから温暖化や氷河期が自然のサイクルであったとしても、台風や地震がくるのに何も対策しないのと同じで、それを受け入れる理由にはならない。

そして、この先自然に温暖化が収束すると主張されても、その保障は無いし、現実に暑くなっていることが問題なのだから、暑さを我慢しろというならともかく、何もしなくて良いとか或いは温暖化対策を否定する理由にはならない。

こうした事を考えれば、効果があろうと無かろうと、害が無い限りCO2削減は必要な措置なのだろう。とすれば自然エネルギーやカーボンニュートラルなエネルギーの必要性は至極当然な事と言えるだろう。

日本は、火山が多く、河川の勾配が急であるなどの地形的条件、年間の降雨が、梅雨期、台風期に集中するなどの気候的条件により、洪水や土砂災害が起きやすく、また降雨を水資源として安定的に利用しにくい自然条件となっている。

こういった自然的地勢的条件を考えると、まさにダムによる水力発電は、自然エネルギー必要論だけではなく、防災やライフライン確保の観点からも望ましくマイナスをプラスに転じる一石二鳥いや三鳥の効果がある。

ところが脱ダム宣言のように治水効果だけを論点とし、それに工事発注の不透明さや建設談合による高コストで、費用対効果が論じられ、加えて土砂供給減による海岸侵食などのマイナス面がクローズアップされてしまった。

田中康夫知事が打ち出した、脱ダム宣言は、公共投資における費用対効果の点では正しい判断であったが、建設利権との対立面ばかりが強調され、あたかもダム=悪であるかのように定着してしまった。

(つづく)

↓ ↓ ↓

人気blogランキングへ

|

« 「終わりの始まり」~序章の2 | トップページ | 「終わりの始まり」~序章の4 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「終わりの始まり」~序章の3:

« 「終わりの始まり」~序章の2 | トップページ | 「終わりの始まり」~序章の4 »