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2008/07/24

「終わりの始まり」~序章のオワリ

海岸が浸食されるショックは非常にリアルであるのに対して、地球温暖化はどうかといえば、こちらは全くリアリティが無い。生まれてこの方確実に温暖化してきている事は実感するけれど、飛んでる鳥が落ちてきたり、暑いですね~と言いながらも、外を歩けない程ではないから、地球の周期的気候変動だと言われれば、それもアリかなあと思わせるくらいに危機感のリアリティが無い。

ところが、危機の程度は、そのリアリティの無さに反比例しているようだ。海岸侵食は目に見える局地的変化なので、対処しやすいし、対処可能だが、温暖化は目に見えにくいし、対処は国家レベルとなって、個人や企業では対処しにくい。

だからだろうか、地球温暖化やその対策を否定或いは非難しても、対象が茫洋としていて、言いたい放題言い易い。例えば大元の温暖化自体を否定しても、否定したからといって、そのため特定の誰かが自然現象の被害を受けるなどという事は無い。

或いは、様々な温暖化対策を否定・非難しても、同様に、その結果自然現象が特定の誰かに害を及ぼす事も無い。要するに、言いたい放題言っても具体的被害者を特定できないから、何の責任も問われない。

地球温暖化対策が必要だと叫びながら、自説を絶対として、定説化した理論や対策方法に異を唱え続ける人々がいる。定説が絶対に正しいとは言い切れないから、異を唱える事自体は間違いではないが、であれば、客観的且つ科学的な根拠を示し、専門領域においてきちんとした説明と主張を望みたいものだ。

定説に異を唱える人々は、この科学的根拠を示す前に、既存の温暖化対策は○○の利益のためのもであるから陰謀だなどと言う主張をする事が少なからずあるが、そんなのカンケー無い!

この○○が特定の国家だったり企業だったりするが、それは温暖化対策の是非とは何の関係も無い、それはそれで全く別の次元の是非なのだ。腎臓癌の治療は手術しかない時、手術で医者が儲かるのだと主張し反対されては、患者はたまったものではない。

この手術の例えの場合は、手術に反対して患者が死んだ時、反対した人は責任を問われるだろうが、環境問題では、間違っていたときに、いったいどう責任を取るのだろうか。

キチンとした根拠があっての、地球温暖化対策反対論であれば、それは全世界レベルで真摯に耳を傾け、検討すべきものだが、単に自説を放言したいだけならば、その罪は大きい、なにしろタダの自己満足や自己顕示欲のために人類を滅亡に導くのだから。

ここで、今一度整理しよう。地球環境問題を考えるとき、

     温暖化が人類存亡に影響有るか無いか。

     ガマンできるなら放置するのもあり。影響有るとすれば、それが自然のサイクルであろうと人為的原因であろうと、対策が必要。

     対策には、原因特定が必要。

     原因特定には科学的根拠と証明が必要。

     絶対的証明が困難な場合は、相対的に最も有力な説を採用。

     その原因を解消するための対策が無駄の可能性があっても、地球環境に害を及ぼす事では無い限りは実施すべき。

という流れでは無いだろうか。

もっと細かく言えば種々有るだろうが、概ねこんなところだと思う。で、ここで問題となるのは、個々の中身の議論ではなく、再三申し上げたように、「人類存亡の危機」よりも「自己の価値観や自説の主張」にプライオリティを置いた無責任な放言の存在なのだ。

この存在は、個人の目に見える利益のためではないため、一見正義に見えてしまうところが厄介だ。例えて言うと、中国の思想に「愛国無罪」という考え方があるように、私の利益ではなく公益のための行動ならば何をやっても許されるとの思い込みだ。

この思い込みが、本当に考えなければならない人類全体の共通課題をぼかしてしまい、結果的に獅子身中の虫を演じてはいまいか。そんな気がしてしまうのだ。まあ、ガイアの存亡にとっては、人類そのものが癌細胞みたいなものとすれば、獅子身中の虫は、ワクチンみたいなもんだが・・・ここはガイアと動共存するべきかが課題なので、そんな自己否定を考えても意味が無い。

さて、少々長くなってしまったが、ここまでが、終わりの始まりと題した人類滅亡のシナリオの序章だ。次回以降は、人類滅亡に向けての勝手なSFストリーのプロットをお話しよう。

なに面白くない?まあ、そう言わんと、そのうち面白くも恐ろしい展開になるから、とりあえず↓をプチっとクリックしてくれたまえ。では、また。

(つづく)

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コメント

とし様、コメントありがとうございます。

何を信じるかは、人それぞれですので、断定は出来ませんが、真実の捉え方に対する指標はあると思います。それは、大きな事象を素直に察知する事では無いでしょうか。それには、それほどの知識や知能が要るわけではなく、素直な心があれば足りるのだと思います。

ガリレオは、それでも地球は回っていると言いました。この時、天動説を説明する公式は可能ですが、地動説に比べれば複雑怪奇でした。天動説を信じても、地動説を信じても説明は付きますが、大きく俯瞰して見たとき、より矛盾が少ないのは地動説です。

より、判断情報が増えた現代では、もはや天動説は破綻しており、検証するまでも有りません。しかし、現代人の知識が無ければ地動説を理解できない訳ではありませんから、素直な心で判断すれば、理解できたはず。実際、今や小学生でも理解してますしね。

地球温暖化も同じ事だと思います。起きている現象を素直に認識する事が第一であり、次に現象の問題点を認識し、その問題を解決するための課題を抽出し、対策を立てる。こう考えれば、それほど諸説紛々とはならないと思うのですが、どーもそうではないようですね。

これ以上は、長くなるので止めますが、「ビリーバーズ」という映画にそれが凝縮されていますので、各位、レンタルで一見される事をお勧めします。

投稿: ベンダソン | 2008/07/29 18:30

お久しぶりです。

地球温暖化の話というのは一体正しいのか間違っているのか?結論を下すのは難しいところではあります。テレビはフジテレビを除いて地球温暖化肯定ですし、ネット上でも五分五分と言った印象があります。

どっちが正しいか?はわかりません。

ただ、地球温暖化をはじめとして、すべての「エコ」に関して言えることが1つだけあります。

それは『エコ』という言葉が『エコロジー』と『エコノミー』の両方の側面を持っていなければ『エコ』は成立しないということです。

仮に、地球温暖化が本当だとしても、人間が呼吸する限り二酸化炭素というのは出続けます。であるならば、エコの基本って「効率的な資源の利用」であり、それって要するに「ケチ」をするってことですよね。要するにエコノミーです。

しかし、近年、その環境の問題が出て以降、私たちの懐事情というのはどうなったでしょう?

バイオエタノールのために穀物の値段が上がり、日本においても穀物のみならず、いろんなものの値段が上がった。原油も上がった。

私たち末端がどれほどケチをしようとも、確実に懐事情は厳しくなっています。

本来、『エコ』というのは、資源の節約であり、節約しながらも有効利用する仕組みを開発することによって実現していきます。そのための開発費のようなものはかかるにしても、それが消費者である末端に影響することは本来はほとんどありません。

しかし、現在の「エコ」は、とかくお金がかかる。

しまいには、環境税などというものまで作ろうとしている。

私は、エコの基本は、繰り返すようですが「ケチる」ことであり、ケチりながらも、効率を常に考えながら、限りある資源を利用する。これに尽きると思っています。

なので、仮に今の地球温暖化が本当だったとしても、こういう「負担増」の流れが出来上がってしまっている以上、私は地球温暖化以前に、公の考える「エコ」は信用できません。

あと、私がいつも思うのは、人間というのは「理と知の混合体」であるということです。

理は地球、すなわち、ガイアであり、知というのは己れが便利になるために使うものだと思っています。

しかし、知がどれほど発達しようとも、理が作り出した究極の科学である「体」を超える知を作り出すことはできません。

人体に限らず、あらゆる生命体の体ほど、優れた技術はありません。ロボットなんて、ようやく二足歩行ができたというくらいですから。

つまり、レコードとCDがそうであるように、確かにデジタルは優れた技術ではあるが、品質の良いレコードの音にはかないません。

デジタルは、所詮「究極のアナログ」を目指すために作られたものです。

それは理と知の関係においても同じことです。

知がどれほど発達しようとも、究極の理には追いつくことはありません。

だから、すべての生物は、地球に生きている限り、本来、理というものを備えているはずです。何も道が分からなかったりしたときは、己れの中にある理に従えば良いと思います。

そもそも、みなさんが使っているその肉体は、今の人間の知能程度では解明できないくらい高度なものだということを。

だから、本当に知を極めれば、自ずと理に帰るはずなんですが、こういう状況が起こっているということは、まだまだ人間の知も大したことではないということなのでしょうね。

もっと、理に従ったものを作れば良いだけのことだとおもうんですけどね。

そうすれば、地球温暖化が本当であろうがウソであろうが、自ずとそれらの問題は解決していくと思います。

最後に、エコとは離れてしまうかもしれませんが、本来、教育も、学問という「知」を教えることによって、その先にある『理』に気づかせることこそが教育の究極であり、それができて、卒業であると私は考えています。

要は、『理』というものに、そのさわりでも良いから感じて、理解させれば、それが学校の教育課程は終わりですし、その先何があろうが、それは己れの中の生涯学習として身につけていくことでしょう。

しかし、今の学校教育や予備校や塾などは「知の競争」しかしようとしない。

だから、東大卒でもろくでもない奴が出てきたりするんです。

知を教えることしか考えないからです。

なので、環境の問題が、こういう広がり方を見せるのも、突き詰めていけば因果応報なのかもしれませんね。

いつもながら長々と書いてしまって申し訳ありません。

それではまた。

投稿: とし | 2008/07/25 13:26

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