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2009/01/11

今こそ首都移転じゃないの(その2)=望まれる道州制

何故首都機能移転が実現しないのか、それは①既得権益と②利益誘導のせめぎ合いからだが、既得権益とは、適切な言葉が無いから使ったまでで、中央集権と首都東京1極集中の体制の下で、あらゆる階層に出来上がった社会構造の事だ。

当事者に権益の意識が無くとも、もし首都が移転したなら、東京及びその近郊地域は、「地方」になってしまうから、反対はともかく、少なくとも歓迎はされないだろう。

1都3県の人口は3500万人、総人口の約3割だ。住民の殆どは東京に通勤したり、通勤する人を相手に商売したりと、首都東京と生活基盤は密接に繋がっており、首都圏住民にすれば首都(機能)移転にメリットは見出し難い。大雑把に言えば、この総人口の3割は賛成しない。

移転に賛成するのは、残り7割だろう。では3対7で移転が成立かといえば、それは移転という総論に賛成であって、具体的な移転候補地の名が挙がれば、その瞬間に候補地以外の人々は賛成するメリットがなくなるから、実際は3対7ではなく、3対もっと少数となって、成立しない。

要するに、構造的に自己矛盾を含んでいて、民主的に決を採る限り、永久に首都(機能)は移転しない。でも、国土全体の均衡ある発展を考えたら必要なのは誰しも理解できるはず。であれば、この構造的な論理矛盾を解消するか、或いはそれがぶっ飛ぶような強烈な理由が無ければならない。

後者は、今まで述べた「みぞうゆう」の危機だ。では前者すなわち構造的な論理矛盾を解消する方法とは?例えば、それは首都の一人勝ちを解消したり、首都(機能)移転の利益を配分することではないだろうか。現状の移転論議では、もし福島県に首都機能が移転するとすれば、福島県がものすごく発展するというところで考えが留まっている。

だから、現状の中央集権のままでは、首都移転ではなく首都機能の分散となるわけだが、どうせならば首都も移転した方が良いのは先に述べた通りだ。ココまで言えば、もう何が問題かお分かりだと思うが、要するに1極集中の原因は過度の中央集権に原因があるので、首都或いは機能を何処に移そうとも、そこに新たな1極集中が生まれるので、根本的には問題解決しない。

現状の中央集権のまま首都(機能)移転を望む事は、1極集中の利権をオレのところにもってこいと言ってるようなもんだから、本質的には利権争いと同じなのだ。だから、都市経営の権限即ち課税権・徴税権を含めた分権或いは道州制が、大前提として必要となるのだ。

現状の中央集権のままでの首都(機能)移転するならば、福島県などの候補地は目の色変えるけれども、その他の県は、無関心になるのは当たり前だ。それでも現状のまま、首都機能移転するというなら、その分の増進をその他地方にも分配する仕組みを作ったならどうだろうか。

例えば、首都(機能)移転した地域の固定資産税収は飛躍的に増大するけれど、これを首都(機能)移転先がウハウハ喜んで独り占めするのではなく、増収の何割かは、移転に賛成した地方に配分するとかだ。

ところが、実はこのことは、別に首都(機能)移転じゃなくても、今現在の首都東京でも当てはまると思う。東京で納めた税金が、地方にばら撒かれるのはけしからんという人がいるけれど、大多数の大手企業は本社を東京に置いていて、地方で稼いだ企業収益も、大半は本社のある東京に吸い取られているのだ。そっちの方がけしからん話じゃなかろか。

本来は、地方で稼いだ金は地方に落とすべきだろう。だから首都にある本社から徴税した税金を地方に廻すのは、借りた金を返すようなもののはず。もっとも、借りた以上に返すのは、これまた不公平ではあるが・・・(つまり必要以上の地方へのばら撒きのこと)。

なわけで、地方には課税権が無いのだから、本来地方が課税すべき税収を、地方交付税として配分するのは、当たり前といえば当たり前だ。所謂機関委任事務の逆バージョン、つまり国の仕事を地方に委任するのではなく、本来地方の仕事を国に委任しているのだ。

ただし、こういうのは、あまり本質的な話ではないな。首都東京に本社が集中するのも、日本全国何処に本社があっても税率に差が無けりゃ、首都が良いに決まってるからだ。地方に本社を置くメリットが無ければ、地方は永久に活性化しっこない。

地方における都市経営の手段を、中央集権が奪ってしまってるのだ。自主独立というなら、独立した課税権を与えなけりゃムリってもんだ。この点は小泉政権の不可解だった部分だ。やり方は、道州制でも現状のままでもいいから、課税権を含めた地方分権を進めれば、かつて大名が藩を統治したように放っといたって地方は活性化するだろう。コッチの方が本来的な話だ。

話が、あっちこっち行って恐縮だが、ブログタイトルの首都移転もさることながら、税制含めた地方分権と道州制移行の方が、実は本質的で大切なように思う。首都移転は、そのためのセンセーショナルで分かりやすい手段の一つなのだ。(なにせ地方への公共投資に、大義名分と実効性が生じる。)

分権と道州制が導入されれば、社会制度の実験が行えるし、そのメリットも大きいと思う。例えば、今問題となっている派遣切りは、2004年の法改正が原因といわれているが、これがもし地方条例で行われていたらどうだろうか。

A州では製造業の派遣OKだが、B州では禁止というわけだ。当然に、製造業はA州に集まるだろう、そして人手不足となって、派遣需要が増す。B州では企業が流出し疲弊するだろう。ところがそこにリーマンショックが襲い、A州では派遣切りが社会問題となるが、B州ではそんな問題は起こりにくい。何しろ派遣社員はおろか、企業数が元々少ないからだ。

では、B州のやり方、つまり派遣労働禁止が正しいかは、そう単純には判断できないだろう。不況の影響はA州もB州も同じだから、企業の人員削減要求は両方とも同じであり、B州では経済情勢に応じて直ぐには対応できないから、当初、A州のような派遣切り問題は起こらないけれど、代わりに企業が倒産したり、正社員切りが起こるだろう。

どっちがヤバイかといえば、かく首よりも倒産だろう。だから一概にどちらが良いとは判断付かないように思う。そうしたとき、A州・B州で制度が違っていれば、その経緯を見ることで、政策や制度の失敗がもたらすリスクを分散し、検証することが出来る。

昔も今も、この国の特徴は、いわしの集団か集団ヒステリーのごとく、刺激に反応して一斉に同じ方向を向いてしまうことで、そのため先の大戦では、それこそ未曽有の失敗をやらかしたのだ。その本質は、少しも変わって無いように思う。

例えば、派遣切りが問題になると、あたかも大企業経営者と言う強者と派遣という弱者の対立で、弱者が蹂躙されたという構図を作って、そこだけを見てしまい勝ちだけれど、日本の労働人口は約6400万人、そのうち被雇用者は5400万人だ、そして派遣は320万人で、問題の派遣切りは25万人らしい。らしいというのは、先ほどテレ朝のサンプロで共産党がそう言っていたから(タブン、記憶では)。

派遣切りの問題は、大きな社会問題だし、先ず解決しなければならないけれど、それをもって製造業への派遣はケシカランと決め付けるのはどうだろうか、先ずもって労働人口6400万人にとってどうかを考えなければバランスを欠くだろう。

今問題となっているのは派遣切りであって、本当に派遣制度が原因であったり、イケナイ事かどうかは、軽々に判断できまい。前述したように、社会現象として派遣切りが起こってはいるけれど、派遣を禁止したらかく首が無くなるかどうかは分からない。

今、確実に言えることは派遣切りされた方たちは、少数の弱者であるということ。だから救済が必要であるということであって、即派遣制度を廃止することは、間違いなく職に就いている派遣社員320万人が職を失うし、派遣切りで路頭に迷っている人も救われないから、正しいとは限らない。

このようにもし、派遣が無くなれば、派遣切りもなくなるけれど、リストラの必要性は変わらない。内部留保がたんまりあって、向こう何年も企業活動がなくてもやっていけるというキャノンなどは、例外であって、大多数の企業はリストラしなければ生き残れないからやっているのだ。

同じ生産能力ならば、本来、給料の高い正社員を切った方が企業にとってもメリットが大きいが、それが出来ないから、賃金が安くむしろ費用対効果の高い派遣社員や期間工を切るのだ。もし、リストラが出来なければ、正社員全員が給与ダウンとなり、やがて倒産すれば、全員が解雇される。

要は、リストラしなければならない状況が問題なのだから、社会システムとして、ワークシェアを確立するか、全体のGDPを上げるしかない。前者は、リストラ対象者以外全員が犠牲を強いられるので、首都移転と同じで、お題目としては皆唱えるけれど、我が身を犠牲にはしたくないので、先ず実現し難いだろう。

ではGDPを成長させる?そんなことが出来たなら、誰も苦労はしないし、不況も起こりえない。当たり前だ、誰だって分かることだ。でも、それって、現在の社会体制を前提としてないだろうか。かつて、日本は敗戦から立ち上がるために必死で働き、世界の超経済大国になった。87年には一人当たりGDPが世界一だった。それが今やベスト10にも入れない。(但しGDPは相変わらず世界第2位だ。)

ナンバーワンになった要因は、戦中派世代が死に物狂いで働いたからであり、凋落の原因はそれを食いつぶした後の世代と一極集中による、国土のアンバランスな発展にあると思う。では何故、戦中派は、がむしゃらに働いたのだろうか?タブンそれは「悔しさ」と「開放」ではなかったか。

敗戦により、それまでの価値観が破壊され、民族のプライドもズタズタにされ、歯軋りするほどの悔しさに見舞われたけれど、一方では、既存の軍国主義や全体主義体制が破壊され「自由」と「民主主義」がもたらされたので、悔しさをバネに頑張れば頑張るなりに成果が手に入った。

ところが、何時しか、手に汗して一生懸命働いているのに、株式会社ニッポンだの働き蜂だのと中毒だのと、養っている世代からボロッカスに言われ、養われている世代は、批判ばかりで競争を嫌がり、結果平等を求めた。

戦中派が稼いだ富で暮らせた間は良かったが、バブルがはじけて、マジメに働かなければならなくなってからは、「赤字国債⇒金融機関が買う⇒その金は国民が金融機関に預けた金」というシステムの中で、先達が稼いで溜め込んだ1500兆円にものぼる個人金融資産を食いつぶしているのだ。

一方、この結果、地方が疲弊している状態は、内戦によって敗戦した状態に近いだろう。中央集権によって首都に、富と税金が持って行かれては、都市間競争も何もあったものではない。最初から地方不利で不平等な戦いだから負けるのは当たり前だ。

この敗戦でボロボロになった地方に、自由と平等を与えたらどうなるだろうか。自由とは分権だ。そして平等とは、首都も地方も全く同じ権限ということ、つまり連邦制ということだ。課税権徴税権といった根本的権限を委譲し、自由な都市経営と都市間競争が行われるならば、地方は頑張れば頑張っただけの成果を享受でき、今までのように不平等に中央政府に富が吸い上げられることも無い。

そうなれば、様々な工夫も努力も生まれ、各地はかつての敗戦日本とまでは行かないまでも、頑張りようがあろうというもの。各地の域内総生産(GRP)は上がるのではないだろうか、と思った次第。

安い人件費で、頑張る地方が有って、税も安いとなれば、企業はこぞって、政情不安な海外よりも国内に進出するだろう。減税が効果あるか無いかは、各地方の経済発展と最終的な税収のバランスで判断すればよいではないか。

今、行き過ぎた競争社会が問題となっているが、はたしてそれは競争が原因だろうか。もし競争がいけないとするなら、それはもう見解の相違とは思うが、現実に経済がグローバル化してしまった以上、いくら国内で競争を無くしたところで、海外とは競争しなければならない。

そうなれば、否応無しに競争原理が働き、労働力の安い海外に、益々生産拠点が移行し、日本は空洞化するだろう。結局は、国内生産の効率と消費力を高めて内需拡大するしかないんじゃなかろか・・・と思う次第。では、また。

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