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2009/10/22

核は必要か(その2)

さて、つづき・・・・、この拉致や尖閣問題がはっきりしてなかった10年前ならばまだしも、もしいまだに日本が非武装中立で平和を維持できると思ってる人がいたならば、言っちゃ悪いが少しオツムが足りない人と言わざるを得ない。

■攻撃対象は戦争理由ではない

日本の危機はアメリカの基地が招いているとする説も、ちと無理がある。戦争になれば真先に軍事基地が狙われるのは当たり前だからだ。日本が攻撃されるとしたら、国会議事堂・首相官邸、米軍基地・自衛隊基地だろう。相手の武力を奪い頭を攻撃するのは個人でも国でもケンカの常道だ。戦いの最中に無くても手に銃や剣を持ってたら、その手は払われるが、それは危害が予測されるからだ。

銃社会のアメリカでさえ、銃を持っているだけで撃たれる事は無い、銃を持っていることで撃たれるのはホルスターから銃を取り出したり、出そうとした場合だ。銃を持っているだけで危害を加えられることは、抗争中でない限りあり得ない。

国家間の戦争でも個人の抗争でも、相手が武器を持てば狙われ攻撃対象になるが、友好的な相手ならば攻撃しない。つまり武力は抗争の原因ではなく抗争解決の手段なのである。

銃が危険だからと持たなければ、喧嘩相手は、別に武器を持ってない手を狙う必要がないだけで、好きなように攻撃できる。米軍基地があるから危険だなんて発想は、法治国家の中の秩序が保たれた社会における発想だ。国家権力が悪党を取り締まり守ってくれる前提でのみ成り立つ話であり、前提条件が全く違う。

現に、世界中が武装していて、日本人が自国内で拉致されている状況の中では、武力無くして平和は守れない。

■原爆は武器か

では、その武力の中で原爆等の大量破壊兵器は、武器として機能しているのだろうか。それこそ、当り前だと言われそうだが、でも、考えたら現に武器として使われたのは広嶋・長崎だけだ。事実上最初で最後ではないだろうか。

大量破壊兵器は、確かに強力な戦争抑止力となっているように見えるが、本当にそうだろうか。原爆等の大量破壊兵器は、広嶋・長崎に投下された時のように片方だけが持っていたら、確かに強烈な戦争抑止効果がある。事実、一億総玉砕なんて叫んでいた日本も屈服せざるを得なかった。

だが、もしあの時、アメリカも日本も現代のように多数のミサイルと核弾頭を持っていたらどうなっていただろうか。日本もアメリカも、勝敗が決する前に総玉砕してたはず。軍事力で相手を屈服させられるのは、相対的に相手より強い場合だ。

ところが、核の場合はまさに最終兵器と言われるように、破壊力が限度を超えてしまっていて、さらにはその攻撃力が放射能汚染によって持続するから、相対比較ができない。旧ソ連とアメリカの核兵器のように、地球全部が破壊されても余る量となれば、どっちが強いも弱いもない。

攻撃される前に、完全に相手の核ミサイルを全滅させない限り、自分も全滅させられてしまう。しかし完全に相手の核ミサイルを全滅させることは不可能だ。だから核を充分持った国同士の核戦争となれば、お互いが破壊力の限度を超えてしまってるから優劣なんて概念が成り立たない。

例えて言えば、密室の中でお互いがダイナマイト振りかざしてるようなもんだ、ダイナマイト1本でともにアウトなら相手が何本持とうが関係ない。だから使ったら最後、大国も小国もない、共に倒れるか、再起困難な大打撃を受ける。

それに、局地戦ならともかく、そもそも核攻撃となれば全面戦争だ。そうして国土の差によって片方の国が全滅を免れたとしても、破壊と放射能で生き残ったほうも混乱の極みで、相手国を占領する余力もないだろうし、仮に全滅させた相手国に乗り込もうにも、放射能で汚染され不可能だろう。

だから核は武器としては実際には使えない。それどころか、実は抑止力にもなってないように思う。これは言い方が難しいが、正確に言うと核は最終兵器故に共倒れの危険があるので結果として戦争を抑止している。言ってみりゃ心理的にはブラフ合戦だが、ブラフで終わらないところがヤバイ。

ちとクドイがここんとこ聞いてほしい。通常兵器の場合、武力の優劣で相手を威嚇して戦争を抑止しており、勝ち負けが前提だ。北朝鮮と米国では圧倒的な軍事力差があって、北は絶対に勝てないから米国を攻撃しない(そもそも攻撃する理由がないが、それは置いといて)。

だが、北が長距離弾道ミサイルと核を持ったならば、勝ち負けの可能性が消えて、共に負けることになる。少なくともアメリカは北朝鮮の国土を超えた攻撃はし難いから、北朝鮮が全滅する以上の攻撃はできないが、米国は国土が広い分、北朝鮮は持ってる核ミサイル量を全量ぶっぱなせるので、それに応じた被害を受ける。通常兵器の戦争抑止力が相手が勝つ可能性なのに対して、核は負ける事が前提なのだ。そしてその先には人類滅亡の可能性が限りなく高い、故に最終兵器と言うわけだ。

でも、それではいくら戦争が「他の手段をもってする政治の継続である」と言っても、勝てる可能性がなければ意味がない。

■戦争は無くなったが、人類は滅亡した?

戦争をする意義を無くしてしまう点では、核の戦争抑止力は極大である。戦争をこの世から無くすと言う1点だけに焦点を当てれば、核は有効だから世界中の国が長距離核ミサイルを持てば、戦争は無くなるかもしれない。

ただし、それには世界中が理性を持っている事が前提になる。いかれポンチの首領サマが核ミサイルをぶっぱしたりしない事が前提だが、未だにイカレポンチが支配してる国は世界中にあるから、これは論理矛盾だ。つまり戦争は無くなったが、人類は滅亡したとなるだろう。

癌に絶対効く特効薬の副作用が強くて必ず患者が死ぬとしたら、それは使えない薬となるだろう。核はまさにそれなのだ。

■核の抑止力はドロボーのジレンマ

核が、武力として機能するのは相手が持ってなくて自分だけが使える場合であって、相手も持ってしまえば武力にはならない上、いつ共倒れになるか、あるいは人類が滅亡するか分らない危機を招く。

そして、人を殺傷する単価が圧倒的に安い上に使えないから消耗しない、兵器産業としては継続的には儲からない。兵器産業は使ってナンボであり、廃棄も困難な単価の安い商品は、兵器産業にとってもさほど有用ではない商品なはずである。

だから、一億総玉砕なんて言うような狂った国を屈服させる、その一点に絞れば原爆投下は効果があったが、以後は兵器としては最終兵器過ぎて使えなくなったので、この世からなくしたほうが良い事は明らかだ。

でも、限度を超えた武器を相手が持って自分が持ってなければやられてしまうから、まさにドロボーのジレンマに世界中が陥ってしまい、無用の兵器を持ち続けようとしてしまっているのが今の世界の現状だ。

■求められるジレンマからの解放

信頼できる誰かが、イッセーのセッと、核廃絶を言い出さないかぎり、私の国は核を持ちませんなんて言ったって何の意味もない。いつも思うのが、こういった自分達の情緒的な考えと、それとはかけ離れた他人(他国)の現実を混同し、区別がつかない日本人の発想には首をかしげざるを得ない。

非核3原則で言っている事は正しいが、論点は世界からの核廃絶にあるのだ。「非核3原則」は言わば、核を無くすには核をなくせば良いと言ってる訳で、感情表現としては分らんでもないが、論点には何ら寄与していない。

こういう論理と行動で目的(この場合は核廃絶)が実現するならば、もともとこの世には戦争は存在しない。日本は「憲法で戦争を放棄しました」で、国家の安全が保てるならば、米軍はおろか自衛隊すらもいらないはずだ。

では、それで現に韓国に実効支配されている竹島は返ってくるか、壱岐対馬は韓国の領土だと言い始めた事に対抗できるのか、尖閣問題では中国が引っ込むのか。武力の背景無しで本気でそんな事思うのだろうか。

そんなこと出来っこない。お互いの利益が相反し意思疎通さえままならない対外国に対して、武力の背景無しに話し合いで問題が解決するならば、何故同じ国民同志の治安維持に、武器を持った警察が必要である説明が付かない。明らかな論理矛盾だ。・・・・・(つづく)

・・けど次回で完

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コメント

日本が核爆弾を保有していたならば、中国が尖閣諸島の領有権を主張しなかったか、韓国が竹島を不法占拠し、対馬が自国領土だと言わなかったか、また日本がこれから核を保有したら、それらの主張を取り下げるかと言えば違うように思います。
要は、日本は敗戦の負い目で外交姿勢が一貫性も主張すべきこともせずただただ八方美人型の事なかれバラマキ外交をしてきたツケのように思います。
ブログ主さんの議論の筋がまだ不明の段階で物をいうのは差し障りがあるので、この後の展開を見守らせて戴きます。

投稿: らむちゃのパパ | 2009/10/23 13:08

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