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2009/12/25

議論の最低基準

今日はちょっとメンドクサイお話をしよう。お互い意見を言いあい、説得したり納得することを議論と定義すると、その議論の仕方の最低限度のルールについてのお話だ。もっと言うと議論の仕方の国際標準のお話。

議論の定義については「説得」だけで、「納得」は無くてもかまわない、自分と相手がいることは当たり前のことだから、結果的に説得と納得は同義になるからだ。あ、いかん、既にくどくなっている。とりあえず先、行きます。

で、議論の仕方の国際標準とは、要するにソクラテス以来世界の常識となっている論法のこと。論理学ってやつね。ただ論理学を事細かに言いだすとキリがないし、大きなところを見失ってしまい世界標準もヘッタクレもなくなってしまうので、ま、ごく初歩的な論理「学」なんてと言うほどのこともない、常識の最低ラインの話だ。

論理の最低限度の初歩の初歩くらいは理解してしゃべらないと、人は説得できないし、納得もしませんよ、と言うお話。数学で言えば、プラスとマイナス、三平方の定理みたいなもんだ。いちいち説明するまでもなく常識として知らなければ、どうにもならないレベル、ほとんど算数のレベルの話だ。

では、最低限度の議論の常識とはなんだろうか。まずは、アーギュメントで話すということ。

アーギュメントとは、数個の前提と結論からなる文章と思っていただければよいだろう。発言の形式として簡単のところでは「Aである。だからBである」とか「Bである。なぜならばAである」という形式だ。結論となる主張()と前提となる根拠()が入っていることがお分かりいただけるだろう。

これに対して、結論のみのような文章をステイトメントと呼んで区別する。ただちょっと厄介なんだが、正確にはアーギュメントはステイトメントの中でも根拠となる前提を持った文章のことをいう。

アーギュメントのもっとも初歩的な基本形が、3段論法だ。これは3歳児が自然と身に付ける論法と言われ、理屈でドーのコーの言う以前のものを考える常識だ。「お母さんは僕が良い子にしてたら、おやつくれるって言ったよね。ボク良い子にしてたからおやつちょうだい」これが三段論法。いちいち言うまでもないだろう。この3歳児はちゃんと、アーギュメントで母親を説得しているのである。

ところが、大人になった日本人が何かを話すときには、ステイトメントの羅列であることが多い。私にはいまだもってその理由が分からないが、ステイトメントの羅列でしかものを言わない人と話すと、幼稚園児の方が、まだ会話になると思う。言えることは、日本人は相当に意識しないとアーギュメントが使えないということだ。

特に話題が、原子力、憲法9条、天皇の話になると、そういう傾向に拍車がかかり、ほとんど議論ができなくなる。その好例がここのところの拙ブログへのコメントだ。論点を理解しない上に、何ら客観的事実の根拠が無く、ただ自分が思っていることを羅列しているだけなのだ。だから、いくら匿名とは言え己の知能の低さを晒しているだけに過ぎない。

アーギュメントが使えずステイトメントでしか主張できないと言う事は、もともと説得の必要がない仲間同志で盛り上がることは出来ても、外に対しては何も言えない内弁慶か駄々をこねるだけとなり、スルーされておしまいとなる。スルーされても、あるいはスルーされることが分かっていて駄々をこねる人は、無意味と分かっていることをやってる訳で、故に知能そのものに問題があるように思う。

と言う訳で、アーギュメント = 前提 + 結論 = 主張 + 根拠 と言うことだ。

主張とは、ま、自分が言いたいことだ。で、根拠はそれを補強するものであることは言うまでもないだろう。何故、そうなるのか?どうして、そういうことが言えるのか?だ。その根拠となる部分は、「データ」、と「論理」だ。

「データ」は、実際に起こった事実、証拠であり、「論理」は、そのデータが、自分の主張とのつながりがあることを保証するものだ。ゆえに先の三段論法のように形式が大事となる。これを形式論理学と言っている。「形式」と言うと何やら形ばかりにこだわっているように思われるかも知れないけれど、それは言葉のアヤ。法則とか定理と思えばよいだろう。

AならばB、BならばC、故にAならばC。と言うのが基本形式で、この順序を入れ替えたり、3段4段と「ならば」を増やしても良い、要はA・B・Cと繋がっている論理構造の形式が重要で、これが途切れていてはダメ。「AならばB、CならばD、故にAならばD」であるなんてのがダメなのは言わずもがなだろう。

この基本形の応用に、最低限度知っておくべき事に、命題と対偶がある。命題「AならばB」の対偶は「BでないならAでない」である。論理記号を用いて説明すると、命題「A B」の対偶は「notBnotA」となる。これは数学のプラスとマイナスの定義みたいなもんで、思考する上の約束事・共通定義なので、俺はそう思わないなんて言っても始まらない。

間違えやすいのは「notAnotB」や「B⇒A」で、これらは待遇ではない。それぞれ「裏」「逆」と言って、命題が真でもこれらは真とは限らない。こういう風に記号化するとかえって分かりにくいので、現実のことに置き換えた方が分かりやすいかもしれない。

例えば、「おカネならばものが買える」が真ならば、「モノが買えないないならばお金ではない」も対偶で真だが、「おカネじゃないならモノは買えない」(裏)とか「モノが買えるならお金だ」(逆)とかは必ずしも真ではない。「おカネならばものが買える」はおカネ以外に言及してるわけではなく、おカネについて言っているので、おカネ以外にもカードとか、金とか、商品券とかでモノが買えることは現実に理解し易いだろう。

3段論法「A⇒B、B⇒C、故にA=C」の結論に応用すれば、CでないならばAではないとなる。オヤツをもらえないなら良い子ではないというわけだ。組み合わせ方によって論理構造はどんどん複雑になっていくが、基本形は3段論法と、命題・待遇だ。

そして、これは言うまでもないが、前提が変われば結論も変わるということだ。「A⇒B、B⇒C」が真であるとき、故にA=Cとなるが、スタートが「A⇒B」のAではなくDとかEでは、全く別の3段論法の体系であり違う結論となる。

例えば、「献金(A)ならば利益誘導になる場合がある(B)」「利益誘導になる場合がある(B)なら収支報告書で開示しなければならない(C)」故に「献金(A)ならば収支報告書で開示しなければならない(C)」と言うことで法律ができたはずだ。

「AならばB」と言う前提が変われば、Cにもならない。つまり「献金(A)ならば利益誘導にならない場合(notB)」場合ならば、「収支報告書で開示しなければならない(C)」にならない。法の趣旨は、利益誘導になるから収支報告書で開示を規定したのであって、利益誘導にならない献金を規制する目的ではないハズ。

もし献金が他人や企業からではなく母親からの献金ならば、これほどクリーンな献金は無く、世の中の政治献金が全て見返りを求めない身内からのものに限定されていたならば、収支報告書も不要となるはず。前提が全く違う利益誘導との仮説の結論を、法であるからと厳密に適用する事は、論理的にもおかしな話となる。

この話が論理的に成り立つのは、前提が同じ場合であって、「AならBでもDでもEでも何でも良いから全てCである」とした場合だ。つまり法は法だからいかなる理由があろうとも厳密に適用する。との論理ならば、当初の論理とは全く別の論理体系だから成り立つ。

ま、この問題はたまたま昨日、鳩山首相秘書の略式起訴が話題になったので例に取り上げたまで。とりあえず、このへんで留めて、先に行こう。

と、言いつつ、本日これまで。続きは明日(たぶん)に。何せお仕事があるのでね、気まぐれで、ごめんなさい。

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コメント

ns様、コメントありがとうございます。

まさか、ここのコメントでアーレントが出てくるとは思いもよりませんでした。ハバーマスとともに、さんざん似田貝先生から聞かされたものですが、ひょっとしたらns様は同じ穴?

ただ、似田貝先生の発音は世間のアレントとかハーバーマスと言う言い方ではなく、アーレント、ハバーマスと言う言い方なので、違うかなと言う気もしますが・・・。

ま、余計な詮索はやめておきましょう。本日のお題は、現代社会学における公共性の解釈ではなく、時代を2000数百年ほど遡ったギリシャ時代のお話です。(ネット時代における新たな公共性については、拙ブログで以前書いたような気がします・・・)

とは言え、nsが言われる「日本にはアーギュメントの代わりになり得る価値観があると主張する人が多く、その人たちのコミュニティ(=似非公共性)ではアーギュメントは無駄だという評価になるのでしょう。」とは、事実としてそのとおりだと思います。

それゆえ、そこに問題点が見えていて、本文に書いたように、「、もともと説得の必要がない仲間同志で盛り上がることは出来ても、外に対しては何も言えない内弁慶か駄々をこねるだけとなり、スルーされておしまいとなる。」と言うわけです。

取り急ぎ
よろしくお願いいたします。

投稿: ベンダソン | 2009/12/25 13:49

まぁ、ハンナ・アレントだったかが公共性には限度があると議論していたのと同様のことでしょう。

本稿に係わる部分で言えば、「議論」に対して公共性を維持できる範囲は、アーギュメントを理解できるかどうかにある訳です。
一方で、ステイトメントの正当性の論拠にアーギュメントを使用しないという手もあると思います。

例えば、極めて同質性が高い集団であれば、経験則がアーギュメントに代わり得ますし、全員が生き残ることができない環境では発言力の強度を代替とすること(=強いものが正しい)も一定の正当性を持たせることができるでしょう。

そういう意味で、日本にはアーギュメントの代わりになり得る価値観があると主張する人が多く、その人たちのコミュニティ(=似非公共性)ではアーギュメントは無駄だという評価になるのでしょう。

そういう常識の上に立つお山の大将がいつまでも居座っているのは何故なんでしょうね(苦笑)

投稿: ns | 2009/12/25 11:47

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