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2010/03/26

足利事件に見る司法の非論理性

さきほど(2010/3/26朝)ようやく足利事件における菅谷さんの無罪が確定した。無罪は明らかだし、菅谷さんが求めているDNA鑑定の誤りや自白の強要についての検察当局の謝罪要求も分かっている。ところが、いくら検索してもこの点に触れたマスコミ報道は皆無だった。

ここで一応、記事を紹介しておこう。別のどこのマスコミでも良い、一様に不思議なくらいに横並びの似たような記事である。

http://www.asahi.com/national/update/0326/TKY201003260128.html

<引用開始>

足利事件の菅家利和さん、無罪判決 逮捕から18年

 栃木県足利市で1990年に当時4歳の女児が殺害された「足利事件」で、無期懲役刑での服役中に釈放された菅家利和さん(63)に対する再審が26日、宇都宮地裁であり、佐藤正信裁判長は無罪判決を言い渡した。検察側は控訴しないことを地裁に申し立てる見通しで、91年12月の逮捕から18年以上を経て、菅家さんの冤罪がようやく晴れることになった。

 菅家さんは事件発生から1年半後の91年12月、殺人容疑などで県警に逮捕された。警察庁科学警察研究所(科警研)が実施したDNA型鑑定と、「自白」が決め手になった。菅家さんは一審の公判途中で否認に転じたが、2000年に最高裁で無期懲役判決が確定した。

 弁護団は「当時のDNA型鑑定は信用できない」などとして、02年に独自の鑑定結果を添えて再審を請求。宇都宮地裁は08年2月に請求を棄却したものの、即時抗告審で同年12月、東京高裁がDNA型再鑑定を決めた。09年5月に殺害女児の下着に付いていた体液と、菅家さんのDNA型が違うことが判明。再審開始が決定された。 

<引用終わり>

■争点の報道が無い不思議

速報だからなんだろうか、肝心の争点がすっぽ抜けている。とは言え、争点は明らかなので、記事の案文も事前に準備できるはず。後は判決でどう扱われたかだけを書くだけではないか。だから、まことに不思議な感じがする。

■再審の争点

問題の争点を、今朝のTVワイドショーではこう伝えていた。菅谷さんが、当時の取り調べ官や自白の強要、間違ったDNA鑑定結果を証拠とした事への謝罪を求めた事に対して、当事者の謝罪は無く、検察当局は自白の強要は無かったし、DNA鑑定も当時の精度では誤りではなかった、という。

■求めているのは誤った捜査・起訴への反省

検察当局の現職幹部の冤罪に対しての謝罪は報道されるが、それは漠とした謝罪であり、菅谷さんが求めている捜査の誤りへの謝罪についての報道が一切無い。だから最終的に、検察・司法当局がこの点にどう対応したのかが分からないが、TVの報道通りだとすれば、こんなフザケタ理屈は無いだろう。

■事務手継ぐ気優先裁判?

自白の強要については、本人が証言しているのである。そして自白調書を否定しているのだ。今の司法界の論理では自白調書は自白の契約書なのだ。つまり真実を求めるのではなく事務手続き的に裁判を進める意図がモロに出ている。

■本人が否定する自白

自白とは文字通り自ら本人しか知りえない事実を告白する事だろう。だったら裁判と言う公の場で本人が述べる事が最も正しい自白ではないか。それを等の本人が否定しているのに、調書にサインがあるからと本人の証言を無視して調書を証拠採用するのである。

ともに本人の自白なのに、密室の取り調べで、錯誤や強要が有り得る、取り調べる側が書いた調書を信用する論理的根拠は一体何なのだろう。もし錯誤や強要が無いと主張するならば、取り調べ状況を可視化して証拠提出すれば理解も出来よう。

だが、それすらなく、取り調べる側のインチキを指摘されているのに、取り調べる側が正しいとの前提に立って調書が正しいと言うのは、オレが正しいんだから正しい!と言うばかりの強弁でしかなく、全く非論理極まりない。

■司法の非論理性

司法当局の非論理性、いい加減さについては、以前にも書いたので、特にこちらの映像をご覧いただければと思う。

http://yahhoo.cocolog-tcom.com/goodwill/2009/10/12-688c.html#more

今回たまげたのは、有罪の決め手となったDNA鑑定が当時の精度では妥当な鑑定結果であり誤りではないとの主張だ。聞いた瞬間バカかと思った。確かに当時のDNA鑑定の誤差の範囲なのでDNA鑑定のやり方自体は誤ってないだろう、だがそのいい加減な結果を証拠として人を裁いた事が問題なのだ。

■問題なのはいい加減な分析ではなく、それを証拠とした事なんだが

こんな理屈で人を裁いているのかと思うと唖然としてしまう。スピード取り締まりする時にプラスマイナス20kmの誤差が出る測定器で測って、20kmオーバーでとっ捕まえ、機器の取り扱いは問題ないと言うようなもんだ。

誰も当時のDNA鑑定のやり方の不備や機器の取り扱いを問題にしてるわけではなく、その測定結果の誤差とそれを証拠として人を裁いた事を問題にしているのに、測定プロセスや機器取り扱いの正しさを主張するなんて、主張する本人がバカか、国民をバカと思っているかのどちらかだ。

■人権を屁とも思わない?

誤差のある証拠を証拠として有罪を主張した検察も、それを証拠として有罪判決を下した裁判所も、一体人の命や人権をなんだと思っているのだろうか。しかも先のビデオにあるように12年も前から、弁護側は別のDNA鑑定を出して再審請求しているのに、この最高裁元裁判長は無視し、しかもその事実を誤認しているようなのだ。

■放置国家

なんで、こんな事がまかり通るのだろうか。検察・司法がエエカラカンでは法治国家ではなく放置国家ではないか。今たまたま無事に生活出来ているけれど、いつ何どき逮捕され、下手すりゃ死刑にさえなりかねない。

■世間の無関心

それなのに、世間の皆さんは、冤罪事件に対してあまりにも無関心すぎるようだ。この無関心さが冤罪の温床になっているのではないか。

■火の無いところに立つ煙

例えば戦後問題となった冤罪疑惑事件では、例えば帝銀事件など被疑者にも充分犯人と思われても仕方ない面があった。つまり日の無いところに煙は立たなかったが、最近の冤罪疑惑事件では、高知白バイ事件のように「なんでこんな事が」と思ういい加減さ、理不尽さが前面に出過ぎているように思う。どう見ても火の無いところに、無理やり煙を立てているのだ。

■どうせ国民は分からない?

検察・司法は、どうせ国民は何をやっても分からんし、怒りもすまいとでも考えているとしか思えない。最近の例で言えば、一連の小沢騒動もそうだ。大山鳴動ネズミ一匹どころか不起訴にも関わらず、あたかも重罪人であるかの様な印象をまき散らし、検察は知らんぷり。

■裁判不要

これでは話にならない、秘書や元秘書の現職国会議員をそれこそ、一体何の罪なのかほとんどの人が理解も説明も出来ないような罪で起訴しておいて、本当は起訴出来るんだみたいな事を匂わせるやり方がまかり通るのだから、裁判すら不要になってきている。

■妥当な理由があれば被疑者批判するが

拙ブログは、別に取り立てて小沢氏や高知白バイ事件を知っている訳でも、当事者と親しいわけでもないからシンパでもない。だから妥当な理由があれば、こうも検察・司法を非難したりしないし、積極的に被疑者を非難するだろう。

■検察・司法恐怖

だが現実に知り得る情報から、印象操作や恣意的・感情的な部分を削ぎ落して事実関係だけを見る限り検察・司法の言い分、やり方は無茶苦茶だ。

ところで、拙ブログを検索してみたら、やたらとあちこちに引用されていて、びっくりした。所詮ヘタレブロガーの記事だから、検察に目を付けられるなんて事はあるまいと思っていたが、意図不明の警察からの問い合わせが時々あったことと関係あるのだろうかと思うとゾっとした。

それでもおかしな事はおかしな事として、主張せざるを得ない。国民が黙ってしまったらホントこの国は終わってしまうのだ、と思う。

本日これにて。

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コメント

ペンタクロスさん、こんばんは、

>警察庁長官銃撃事件では、警察はとんでもない脱法処理をしてしまいましたね。

日本は明治維新で、欧米になんとしても追いつきたいとの思いから、欧米式のものを数々輸入しましたが、その中で、近代司法というものが未だに理解できていないということなのでしょうね。
近代司法の考え方としては、有罪か無罪かそのどちらかしかないのであって、有罪のようでもあり、無罪のようでもある、というのはあり得ないはずです。集合論でいえば、有罪は無罪の補集合、無罪も有罪の補集合、その中間というのはあり得ないんです。
それから、もうひとつ問題なのは、刑罰を与えることができるのは、本来、裁判所だけですよね。つまり有罪か無罪かを決めるのは裁判所だけのはずです。こんなことは三権分立のイロハのイでしかない義務教育中学生レベルのはなしです。それなのに、たかだか行政官でしかない警察のごときが、立証責任も果たさずに、ある団体の犯行だと断定するだって? あたま大丈夫なのでしょうか? まさかニセ警官の疑いはないのでしょうか?!

>よく警察関係者とお話しするときに、異口同音に「その気になれば誰でも捕まえられる」と自慢されます。おそらく性悪説のはき違えで「国民は誰もが罪を犯しているが、立件しにくい潜在的不起訴状況」だと思っているのでしょう(自分たちのことは「棚上げ」にして)。

激しく同意します。
小生も感じますが、態度が不遜なのばっかですよね。あくまで、国民が主人公なのであって、官僚なんてエキストラ(馬の脚)でしかない、なんてことは毛ほども思ってないようです。一度、権力を背負ってしまうと、何でもできると勘違いするのじゃないですかね。実際には権力背負ってないと何もできないくせに。でもこれはこの国の民度の問題でもあるのです。

(以下引用)
繰り返しますと、憲法は統治権力に対する命令、すなわち「国家」に対する命令です。ピープルに対する命令、すなわち「社会」に対する命令ではありません。憲法の背後には、統治権力がきわめて恐ろしいものだという発想があります。ホッブスが「リヴァイアサン」と表現したものです。(略)。統制されるべきは、社会や市民よりも以前に、まずは国家であり統治権力だ。こういう発想を分かっていないのは先進国では日本人だけです。
『憲法対論』(平凡社新書)宮台真司著(奥平康弘共著)より

>警察・検察もかつてのオウムとよく似ていますね―「崇高な目標を達成するためにはウソをついて世間をダマシてもかまわない」。

故山本夏彦氏の、汚職で国は滅びないが、正義で国は滅びる、とはよく言ったものです。
合法的ヤクザ≒警察&検察、なのじゃないですか?
ヤクザっていったって、権力を笠に着ることもできませんし、カタギにさえ手を出さなければ問題無いのです。
ところが、彼らときたら…。むしろ、国家に寄生するダニですな!

↓パチンコの胴元〝警察一家〟
http://plus.kakiko.com/pachinkotax/sistem_pt.html

たいへん失礼いたしました。

投稿: しま | 2010/04/01 02:44

しまさん、フォローありがとうございます。
警察庁長官銃撃事件では、警察はとんでもない脱法処理をしてしまいましたね。「小沢は悪だが証拠不十分で不起訴」との印象をマスコミ協力のもとで創り上げたことに味をしめたのでしょうか。
よく警察関係者とお話しするときに、異口同音に「その気になれば誰でも捕まえられる」と自慢されます。おそらく性悪説のはき違えで「国民は誰もが罪を犯しているが、立件しにくい潜在的不起訴状況」だと思っているのでしょう(自分たちのことは「棚上げ」にして)。
警察・検察もかつてのオウムとよく似ていますね―「崇高な目標を達成するためにはウソをついて世間をダマシてもかまわない」。
やっと射しかけてきた民主主義の陽光が、また司法官僚の闇に隠されそうです。

投稿: ペンタクロス | 2010/03/31 09:25

ペンダソンさん、こんばんは、
ペンタクロスさんのコメント、要点を押さえていますが、ちょっとだけ補足させてください。

>DNA鑑定は100%一致が無い限り「犯人の絞り込み」の一手段として扱うべきで、これは精度が高かろうが低かろうが同じ、検察はこれをごまかしています。

おっしゃるとおりなのですが、より正しくは「DNA型鑑定」です。
どういうことかと言うと、あくまでもDNA型が一致、不一致というだけのはなしなのだそうで、DNAが完全に一致するということはあり得ないことなんだそうです。なぜかというと、DNAは絶えずキズがつき続けていくのだそうで、発病や加齢によっても変化するのだそうです。

>「『性悪説』に立脚した法治主義」では警察・検察・裁判官への『性悪説』適用も至極当然です。

権力『性悪説』については、『性悪説』だからこそ、権力を三つに分断するのであり、『性悪説』でなければ、何もそんなまどろっこしいことをする必要はありません。スパッと首相なりに全権限を与えればよろしい。そして、何より真っ先に、裁判所こそ必要無いでしょう。
そして、その『性悪説』に基づいて、まずは三権全部に対する命令である「憲法」があり、その「憲法」に基づいたうえで、行政権力だけに対する命令である「刑事訴訟法」があり、司法権力だけに対する命令である「刑法」があったりするのです。
ここいらあたりの〝法の精神〟というものを、日本人は全然理解できていません。
何よりも、警察官、検察官、裁判官といった、権力を背中に背負っている連中さえも理解していないところに、より問題の深刻さがあるでしょう。
彼らに、それらの法令順守、つまり適法手続き(Due Process Of Law)の原則を徹底させることこそが喫緊の課題であり、だからこそ取り調べの可視化も必要なのです。

↓法令順守を理解していない警察
http://www.liberal-shirakawa.net/idea/policestate.html
http://www.liberal-shirakawa.net/tsurezuregusa/index.php?itemid=54

たいへん失礼いたしました。

投稿: しま | 2010/03/30 23:09

ペンダソンさん、こんにちは。
DNA鑑定は100%一致が無い限り「犯人の絞り込み」の一手段として扱うべきで、これは精度が高かろうが低かろうが同じ、検察はこれをごまかしています。
それからペンダソンさんもそうですが、「検察の悪意」への言及がないですね。「『性悪説』に立脚した法治主義」では警察・検察・裁判官への『性悪説』適用も至極当然です。あくまで「過失」扱いにしたい気持ちはわかりますが、事態はもっと深刻です。
それから足利事件での重大問題は「真犯人は今も一般社会に潜んでいる」ということ、警察の怠慢が危険な社会づくりに寄与してしまった形です。司法は「人は自分自身や周辺に降りかからない限り関心をもたない」という個人心理に完全に甘えています。裁判所の謝罪は菅谷さんへはもとより、社会全体に対してあるべきです。

投稿: ペンタクロス | 2010/03/30 17:38

>ペンダソンさん

>取り調べる側のインチキを指摘されているのに、取り調べる側が正しいとの前提に立って調書が正しいと言うのは、オレが正しいんだから正しい!と言うばかりの強弁でしかなく、全く非論理極まりない。

まったく、そのとおりだと思います。
例の富山の氷見事件ですか、山陰地方で真犯人が捕まって発覚したやつですが、真犯人が別に存在したわけですから、身に覚えのない被疑者を無理やり自白に追い込んだとしか考えられないのに、当時の警察側の言い分は、「故意や重過失が原因で起こったものではなく、組織的な捜査の結果と認識しており、現時点で処分は考えていない」岸田憲夫 警務部長(2007年1月処分無しの発表)ですよ。こういうふざげた連中が何をしているかは想像に難くないでしょう。

それなのに、一般の裁判官ときたら、

http://blog.goo.ne.jp/j-j-n/e/66812657c5019c5ea103843c7271be0d

この〝瑞祥〟と称する裁判官、ぬけぬけとよくもまー言うものです。裁判所の役割とは行政権力の恣意から国民を守るというそんな簡単なことでさえも理解していない、こんなのでも司法試験に受かって裁判官として採用される、それがこの国の悲しむべき現状なのだということをよく肝に銘じておくべきです。
この国の司法が機能しているとは、到底考えられません。

>今回たまげたのは、有罪の決め手となったDNA鑑定が当時の精度では妥当な鑑定結果であり誤りではないとの主張だ。聞いた瞬間バカかと思った。確かに当時のDNA鑑定の誤差の範囲なのでDNA鑑定のやり方自体は誤ってないだろう、だがそのいい加減な結果を証拠として人を裁いた事が問題なのだ。

雑誌「WILL」2009年8月号に、日垣隆氏が13年前の1996年の雑誌「論座」に書いたものを再録してあるのですが、その記事を書くにあたって、当時、科警研から呼び出しを受けて出向いた様子も書き加えてあるのですが、たいへん長くなりますが、とても興味深いので引用させていただきます。

以下引用
 (略)
 私が呼ばれて科警研の取調室のようなところに単身入っていくと、白衣を着た八人のオウム真理教化学班みたいな人々に囲まれた。
 彼らの主張は、ただ一つ、足利事件でのDNA型鑑定は間違っていない、キミはなぜ間違っていると言い張るのか、訂正したまえ、ということに尽きた。
 私は、そういうときにおとなしい性格ではないので、科警研がやった方法(MCT118法)は世界的にはもとより、日本の学会でもまったく認められていないではないか、科警研ががMCT118法を導入した翌月から菅家さんの尾行を始めたうえ、菅家さんとまったく同じ「型」の人は足利市内だけで一四〇〇人もいるではないかと、科警研の意に反してべらべらとまくしたてた。
 (略)
 私は怯むことなく、かねてから抱いていた疑問を八人にぶつけた。ちょうどいいチャンスだと思ったのである。その結果、科警研が菅家さんを「クロ」にした唯一の根拠であるDNA型鑑定は、世界広しといえども科警研のこの八人にしか通用しない方法であること、他の研究機関でやったら同様の結果は絶対に得られないこと、が証明された形になった。
 しばらくして、科警研はMCT118法のマーカーを変え、この検査法自体を引っ込める。
 私は、逮捕直前に科警研が行なったDNA型鑑定でも、菅家さんと真犯人のDNA型は(当時も)一致しなかったのではないか、と確信する。そのような鑑定書もあるのに今まさにそれは闇に葬り去られようとしているのである。おそろしいことだ。
 新たな二つの鑑定(弁護側および検察側)によって、犯人のものと思われるDNA型が「一致しなかった」ゆえに、このたびの釈放が実現したことになっている。
 しかし、最初から鑑定の方法が完全に間違っており、しかもなおかつ一致していなかったにもかかわらず、予算ほしさと、警察庁長官賞だけは断じて汚してはいけない、というプライドにこれ以上しがみつくべきではない。
 無実の人が一七年半も拘置所と刑務所に入れられたのである。
 挽いたコーヒーはおいしい――それも本当の談話ではあるものの、そんなレベルの話で報道陣も自らおかした経過をネグってはいけない。
 皆さん、そう思いませんか。

 最後に――。
 このような冤罪事件を避けるために、最低限こころがけるべきことは何か。

(一) 自白だけで逮捕・起訴しない。もちろん有罪にしない。
(二) 鑑定は最低二ヵ所以上に委ね、異なった結果が出た場合は、どちらも保留すべき。
(三) 取り調べの様子を録画し、法廷で要請があれば公開できるようにする。

(以下略)
『WILL』2009年8月号、日垣隆、「13年前からわかっていたDNA鑑定の誤り 足利事件 冤罪の構図」、74~75ページ「科警研の捏造 ターニングポイントは、どこにあったのか」より

これだけのことをやった、むしろだからこそ、でっちあげをしただなんて、絶対に認めるわけにはいけないのでしょう。彼らも所詮は人間ですから。

しかしながら、我々一般の民間人とは違って、自分たちが権力を背中に背負っていること、それは往々にして凶器になるのだということくらいは自覚してもらわないと困ります。

それにしても、検察も警察も、この期に及んでもまだ可視化に反対(これこそが、非論理の最たるもの!)しているようですから、彼らに何を言っても無駄なのでしょう。

長々と失礼いたしました。

投稿: しま | 2010/03/30 04:19

>ぷにょさん

>その方法論の一つとしてアリバイ立証制度を提示したまでです。

だったら、最初からそのように表現してくださいな。
あなたの最初の書き込みは、「この方法しかない」という書き方であって、「こういう方法もある」という書き方ではありません。

投稿: しま | 2010/03/30 03:57

ですから立証する義務は国民(私たち)にありません。あるのは冤罪を防ぐ権利で、その義務は国家が負います。現在、国家はその義務を果たしておりませんので今後も冤罪の影に怯えて生きていかなければなりません。
その影への対処は2つ、影のない土地に移るか国に義務を果たしてもらうかです。その方法論の一つとしてアリバイ立証制度を提示したまでです。それを全員で行うか希望する人にのみ提供するか、それは国民の判断です。ただ国はその権利に対して義務を負う、ただそれだけです。言ってみれば、自分には臓器を提供する権利があるので可能な場合、機関は適切に対応しなければならないというドナーカードに近いものになりますかね。

投稿: ぷにょ | 2010/03/29 12:47

>ぷにょさん

>義務とは謳ってません。

あなたは、

>>冤罪を防ぐには個々人がアリバイを立証できる証拠を常に提供できる状況を作らなければなりません。

と、おっしゃられていますから、冤罪が嫌ならば、疑われた者がやっていないことを証明せよと言っているに等しいのです。

さらに、冤罪が許せないのであれば、アリバイを立証できる制度をつくるしかなく、それが嫌ならば、その社会から出ていくべし、とまで言い切って、ここはペンダソンさんも御指摘のところなのですが、二者択一までも迫っているのですyo。

つまりあなたは、冤罪が許せないのであれば、被疑者はアリバイを立証せよ、ということを重ねて言っているわけで、被疑者の側にアリバイを立証する義務がある、と言っているというロジックは成立するのです。

投稿: しま | 2010/03/29 01:03

○ぷにょ様、しま様、コメントありがとうございます。

>判断するのは人間なので必ず間違えます。この仕組みが完成しないうちは科学で率は上がっても100%にはなりません。それが許せないのであればその社会から出ていくか、アリバイを立証できる制度をつくるかのどちらかです。

との事ですが、アリバイだけが論点ではありません。また現状はぷにょ様の言う通りかと思いますが、だからと言って100%の完全さが求めえないから出ていく、と言う選択肢は、選んでこの国に生まれたわけではないし、全く問題解決にはならないので議論する意味もないでしょう。

あるいはアリバイ立証できる制度をつくると言うのも当選択しとしてはアリですが、「出ていく」とのトレードオフあるいは2者択一でもないでしょう。私は「義務」と言う言葉の使い方ではなく、内容的にはしま様の言われる通りだと思います。

投稿: ベンダソン | 2010/03/28 17:56

しまさんへ
義務とは謳ってません。

投稿: ぷにょ | 2010/03/28 09:46

ちょっと横からすいません。

>ぷにょさん

>冤罪を防ぐには個々人がアリバイを立証できる証拠を常に提供できる状況を

疑いをかけられた者は、やっていないことを自ら証明しなければいけないのですか?
あなたの論理だと、たとえば、あなたが身に覚えの無いことで他人からドロボーだと疑われたならば、あなたがやっていないことを自ら証明しなければならないことになります。
疑いをかけた側に完全な立証義務がある。こんなことは近代社会を営むうえで常識以前のはなしじゃないのですか?

近代刑事裁判についていえば、疑いをかける側の権力側に、逮捕権やらの武器を預けている訳ですから、そちらに完全な立証義務があるのは当然のことであって、被疑者の側にアリバイだとかのやっていないことを証明する義務など全くないのです。

投稿: しま | 2010/03/27 23:27

>やたらとあちこちに引用されて

あはは、どの側面かはともかく引用されているということは的確に物事を捉えていることは間違いないですよ。それがもとで脅迫を受けているならもってのほかですね。

で、菅谷さんの言葉を聞いている限り、検察・裁判官のいずれも犯人であると妄信しているようですがけっして犯人に仕立て上げようとはしてないところに司法の健全さを感じました。三権分立の意図は冤罪を防ぐためのものではなく、権力によって犯人にされたり、無罪になることを防ぐためのものです。
冤罪を防ぐには個々人がアリバイを立証できる証拠を常に提供できる状況を作らなければなりません。現在そのような仕組みはないですし、判断するのは人間なので必ず間違えます。この仕組みが完成しないうちは科学で率は上がっても100%にはなりません。
それが許せないのであればその社会から出ていくか、アリバイを立証できる制度をつくるかのどちらかです。前にも書きましたがその制度とは24時間、居場所と音声と映像の記録をすべて行政に提供する仕組みです。これが成立できれば冤罪のない天国のような社会が成立します。
みなさんはどんな社会がいいですか?

投稿: ぷにょ | 2010/03/27 14:30

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受信: 2010/03/26 15:37

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