物事斜めに見る人々
今日のタイトル「物事斜めに見る人々」なる言葉が世の中にあるのかどうかは知らないが、物事を正面から捉えないで、本来の判断基準では無い価値観で価値判断する人々を、こう表現してみた。
物事を素直に考えれば、問題点がはっきりするのに、わざわざ直接の原因や判断基準ではないところで判断してしまい、話をややこしくなってしまう事が非常に多いように思うからだ。
例えば、人に危害を与える事が悪事ならば、先ず他人に危害を与える人が悪人とか犯人と言われるべきだろう。当然にその判断基準は人に危害を加えることであって、例えばその人が得た利益なんぞは直接の判断基準にはならないハズ。
かつての耐震偽装事件はその典型だ、ヒューザーの小嶋社長やら、ゼネコンの支店長あるいは何とかコンサルタントと言った人々が次々血祭りにあげられていったが、その根拠はいづれも「儲けている」だった。
「あんなに儲けているから、悪いことやってるに違いない⇒犯人だ」とする考え方が先にあって、後からあれこれ重箱の隅をつつき罪を作り上げる。そう言うやり方だった。
バカげたことに、直接に耐震偽装をやっていた姉歯某なる建築士に対しては、「さん」づけで呼んでみたりして、彼こそ被害者だと言った論調が占めていた。耐震偽装は偽装した人間が原因者であったのは明らか、何らかの情状酌量の余地が有ったとしても(とてもあるとは思えないが)、彼が犯人なのである。
殺人事件の犯人と被害者がいて、その関係者や当事者の誰かがその結果利益を得たからとて、事件には何の関係も無いはず。犯人の生い立ちとか貧しさとか、仮に情状酌量の余地が有ったとしても罪は罪として先ず裁かれるのが普通だ。
ところが、マスコミに書かれる事件では、先ずこうした事よりも先に、誰がどう利益を得たのか、先ずそこが問題視され、利益を得たから悪い奴に違いないと言った論調が占めているように思えて仕方ない。
そして、こうした傾向は何もマスコミばかりではない、そもそも人々の志向性にこういう感性が組み込まれていて、結構な説得力を持っているから、マスコミはこれにならっているように思う。
簡単に言えば、ヤッカミだ。多くの日本人は心の中に巣くううヤッカミに思考システムが侵されているのではないか。いくつか例を上げてみよう。
■ 食えない肉を最初に売った業者、黙認してきた監督官庁が悪いのでは?
何故か、報道が下火になって来たようだが、例のO111生肉食中毒事件では、焼肉チェーン店が先ず血祭りに挙げられたが、そもそもそんな肉を卸した業者に問題が有るのではないか。
この焼き肉店に対する批判として、問題のユッケが安すぎると言った論調が多い。安かろう悪かろうと言う事を言いたいのだろうが、問題は衛生管理であって、安さとは直接関係は無いハズ。
歩どまり100%トリミング不要として、件の肉を卸していたとするならば、犯人は肉の卸業者であり、むしろ焼き肉店は被害者だろう。その後の報道が良く分からないので、何とも言えないが、こうした焼き肉店の主張が本当のこととして証明されたならそういうことになるハズで、ユッケの値段がどーたらこーたら、急成長した云々は事件とは直接関係は無い。
直接、事件とは関係ないが、遠因になりそうだからと、こうした事をあたかも原因であるかの様に報道し、またそれに納得してしまう人々はイカレポンチだろう。
ちなみにこの事件、構図が耐震偽装事件と非常によく似ている。直接の原因は、肉の卸業者或いは焼き肉店だろうが、そうした事を起こす制度的原因は、これを野放しにしてきた監督官庁や法制度にあるからだ。
調理方法の基準や検査の義務に対する罰則が無く、違反に対して黙認を続けてきた監督官庁の責任は重いはずだが、とんとそうした批判にはお目にかかれない。偽装が出来る制度を作っておいて耐震偽装が起きてから、それを改める。全国的に肉の細菌検査しない事を黙認しておいて、食中毒事件が起こったら、違反だと言う。こうした役人の責任逃れは似ている。
■ 根拠なき根拠を拠り所にCO2削減に反対する人々
未だに地球温暖化はCO2が原因ではないと反論する人々がいるが、必ずと言ってよいほど共通しているのが、「これで誰それが儲かる」と言う主張だ。曰く原発関連業者を儲けさせるためといった発言が例外なく付いて回る。
なんだかんだもっともらしい屁理屈を並べてはいるが、儲けている奴がいるに違いない、そいつらに儲けさせてはならないと、最後にはついポロリと本音が出てしまうようだ。
地球温暖化に懐疑的ならば、具体的に何がどうして温暖化は起きていないとアカデミックに公式に主張すれば良い。そうした事をしないで、非公式な場や根拠で温暖化や原因を否定して一体何の意味が有ると言うのか。どう責任を取ると言うのか。
■ 原発に反対する人々
今世を上げて原発反対となっている。何の事故も起きていない浜岡原発さえ、何やら良く分からない理由で停止してしまった。原発が危険な事は当たり前だ。だから停止する?だったら何故造ったのか。資源の無い日本に安定的にエネルギー供給するため必要だったからだろう。そして近年では、これにCO2削減効果が加わった。
拙ブログでは、以前、これについて書いたが、たちまち原発反対論者からヒステリックな反論が涌き起こった。とにかく天皇制と原発と憲法改正についてはタブーであり、この3つの単語が出てくると内容のいかんに関わらず、途端に発狂する人々がいるのには閉口する。
とにかく原発賛成派も反対派も正面から来ない。反対論者は、曰く「CO2削減は原発推進のためじゃないか。」曰く、「電力会社が儲かるためじゃないか。」そして震災後言われ始めたのは逆に「原発は本当は高コスト」とか、「原子力関連業者を儲けさせるため」と言う理屈。
原発高コストが仮に事実であったなら、そうした斜めの見方ではなく、単純に電気料金で言えば良いではないか。電気料金が同じならば、原発の発電コストが安かろうが高かろうがそんなの関係無い。
私は今でも、現状のエネルギー政策であるかぎり、原発は、電力の安定供給とCO2削減には必要であるとの認識は変わらない。そしてこの上なく危険である事も同じく変わらない。そう考えている。
だからこそ、バカの一つ覚えのように、タダ原発に反対するのではなく、代替エネルギーをどうするのか、そこを緊急に研究する必要が有る。
ゆえに、小生は再生可能エネルギーについてその得失をLCAの観点でLCCやLCCO2或いはEPTを比較検討した上で、太陽光エネルギーの可能性を見いだした。そして精神論ではなく現実に、太陽光発電で日常生活に必要なエネルギーがまかなえるかを検証してみた。
結果は少なくとも家庭部門においては充分に可能である事がわかったので、これを学位論文にまとめた。そして、この結果災害に強い都市構造を併せて研究し、これも、学術系雑誌に寄稿し、震災に強い低炭素都市の可能性についてさわりを紹介したところ、その直後にこの度の大震災が起こった。
これは単なる偶然であって、どーだ凄いだろうなんて自慢するつもりは毛頭ないが、地道な研究やレビューを経て、新たな知見を見いだす作業をせずに、客観的根拠も無く太陽光発電を非現実的と決めつけたり、代替エネルギーの見込みも無いまま、ヒステリックに原発反対を叫ぶ人々の頭をパカッと開けて、構造を見てみたい気がする。
書きだすとキリがないがとりあえず、こんなところか。ではまた。
本日これにて、
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コメント
経済から目を背けるのもまた、穿った見方の一つです。
資本家が多くの面で世を支配しているのは事実です。
「CO2が増えれば温暖化する」は事実です。
これを根拠なく否定する人間は陰謀論者と言っても良いかもしれません。
しかしながら
「CO2を国ごとに削減するため、CO2売買のシステムを作る」
これに正当性があるかどうかは十分に検証せねばなりません。
「温暖化を利用して儲けようとしている人間がいる」と疑う人が出てくるのは当然ですし、温暖化ビジネスの存在自体は事実です。現実に巨額の金や利権が動いているわけですから。
ある論を否定するために、自分に都合の良い事実しか引っ張ってこないのは、たとえ嘘をついていなくとも不誠実な行為でしょう。
科学的事実とは絶対不変の真理ではなく、反証のしようがないから暫定的に正しいとされているものを指します。
常に既存の事実を疑う姿勢は必要なものです。
投稿: あ | 2018/01/14 18:35
高橋元子様、コメントありがとうございます。
>私はそうした事が何のために行われたのかを考えるようにしています。
そんなことをして誰が得するのだろう、と。
それは必ずしも、犯人はたった一人ではないという結論に結び付きます。
⇒問題意識の持ち方、或いは持つ動機としては正しく、非常に重要だと思います。ただ、それが結論の根拠になっては本末転倒ですね。耐震偽装を例にとれば、「犯人はたった一人ではない」という疑惑を持っても、冷静に調べていけば「たった一人ではないという結論に結び付き」ませんでした。
登場人物はどなたも怪しい雰囲気満点でしたが、犯人はたった一人の建築士であり、この土壌を放置してきた制度責任は、制度を創り管理する責任が有る国交省です。なのに役人以外の多くの人が制裁を受けましたが、自分自身を当事者に置き換えてみればかなりの部分で、避け得ないものであったことが分かります。法治国家なのに、得をしたからと制裁を受けるのでは、安心して暮らせないのでは無いかと思いました。
(5/22記事コメント欄につづく)
投稿: ベンダソン | 2011/05/24 09:31
利益を得る人を嫌うタイプには、金銭が賎しいものという考え方があるように思います。さもしい、あさましいと感じることは否定はしないですが。
耐震偽装はいったい何のためにやったのでしょうね。
私はそうした事が何のために行われたのかを考えるようにしています。
そんなことをして誰が得するのだろう、と。
それは必ずしも、犯人はたった一人ではないという結論に結び付きます。
偽装だと知っていて施工した業者もあれば、偽装したことにより誰が迷惑するか考えられない人を育てたシステム、自分の目で確かめなかった検査機関、すべて言いなりおまかせで買ったのに自分の判断能力の無さを棚にあげて全面被害者面する人、
誰もが被害者であり責任の主体者なのです。
肉の問題も安全性を確かめなかった店、よく考えもせず食べた客、基準がどうこうとまた依存的体質を促す報道、
生肉なんて口にするものではありません。少し勉強したら、あんなリスクの高い食品は無いのです。
全体的に言えることは、みんな少しは考えようぜ、ということだと思います。自分が悪いんだと結論するのが、大人だと思うのです。
誰かも悪いかもしれないが、自分も悪い。
この世には100%なんて存在しないのですから。
投稿: 高橋元子 | 2011/05/24 02:48