阿Qに注目
私の好きな小説のひとつに魯迅の「阿Q正伝」がある。これを読んだのは高校生の頃で、読み始めた途端に夢中になり一気に読んでしまったけど、文学作品として感銘受けたというより、なんというか、内容にそうだよなあと思う共感からだ。
物語の舞台は、中国の辛亥革命のころの小さな村だ。半端仕事でその日暮らしをする阿Qという男がいて、字も読めず不細工で金にも女にも縁がなく、誰からも相手にされない、言ってみれば村では最下層のクズのような存在だ。
ところが阿Qはプライドだけは高く、「精神勝利法」なるマカ不思議な独自の思考法を持っていた。それは、どんなに負けようが、罵られようが、事実を自分の都合の良いように解釈し心の中では自分の勝利としてしまう生き方だ。そしてこの部分に私は感銘を受けたのだった。
感銘といっても、別に感動したわけではなく、それはそういう人物をたまたま知っていて、どうにも理解しがたかった時に、この「阿Q正伝」を読んで、あっそーそー、こういうヤツいるんだよなあ、と思ったからだ。
たとえば、阿Qは、女にこっぴどくののしられると、本当は俺に気があるんだと勝手な解釈をし、喧嘩に負けると、わざと負けてやったと考える、という具合だ。私が当時知っていた人物も目の前の事実そのものを否定してしまうのだが、そうした自分の解釈による事実の作り変えを心の中ではなく外に出してしまうので阿Q以上だった。
例えば目の前で100メートル競走やテストで負けても、勝ったと言い張る具合で、事実を事実として全く認めないので、イカレポンチとして誰も相手にしなかったが、その心理が理解しがたく絶句したものだ。
その後の人生において、幸いこういう人物とは接触がなかったが、大人になってから2人だけ、それに近い人物を目にし、その都度それまで忘れていた阿Qを思いだした。さすがに駆けっこで負けたような目の前の明らかな現実を勝ったと言うほど酷くはなかったが、自分がやったことなのに、まるで他人事のように言うので、はあ?何言ってんだろう?と思ったものだ。「阿Q」ほど酷くはないので「阿Qタイプ」とでも言おうか。
不思議なことに、「阿Qタイプ」の行為が原因の事件でも、彼が全く他人事のようなものの言い方をすると、周りはあたかも本人のせいではないと思い込むようだった。
そして逆に、自分とは無関係の手柄にたいしては、あたかも自分がやったかのような物言いをして自分の手柄を装ってしまうのだった。そんな子供だましのやり方は当然に通用するはずがないけれど、体験的には結構まかり通ってしまうような気がする。
先に述べたように、こういう人物はこれまでの人生で2人しか知らないが、TV等を通してみる有名人の中には、同じ匂いを感じる人がいる。某政党の元代表で、辞任すると公言して居座っていた人物がそれだ。
多くの国民が無加工の動画配信で見ていたのに、子供の屁理屈のような言葉のアヤにすり替えた様は、ああ、この人はこうやって今まで生きてきたんだなあと、「阿Qタイプ」を思い出し妙な感心をしたものだ。
だが、党や会社や学校など、限られた社会では、無理やり押し通せても、万民が見ている前では、いかに「精神勝利法」で現実をすり替えようとしても無理というものだ。
さて、阿Qの話はこれくらいにしてと・・・話は突然変わるが、私は国会の東京電力福島原子力発電所事故調査委員会に注目していきたいと思う。「精神勝利法」で国民を騙せるとカン違いし阿Qを衆目な中で演じる人が出なければよいがと、余計な心配をしちゃうのだ。
というわけで、本日これにて。
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