国会幼稚園
TVのニュースを見ていたら内閣改造で、防衛大臣を民間から起用したことに対して、元防衛大臣の石破氏が、「防衛大臣は政治家がなるべきで、民間人では政治的責任が取れない」と批判していた。
件の防衛大臣任命には私も、いかがなものかと思うのだが、それは、以前森本氏の講演を聞いて、あまりにも話が面白くなく、なにを言ってるか分かり難かったからだ。つまり、一例ではあるけれど、当人の能力に疑問を抱き、その能力では大臣としてふさわしくないと思ったからだ。
ところが、石破氏のロジックは、森本氏個人の能力や資質の批判ではなく、民間人であることを批判する、つまり個人の資質に無関係の普遍的な指摘となっている。であれば、それは制度の問題であるので、事前に制度として防衛大臣は政治家でなければならないと決めておかなければ成り立たないロジックだ。
しかしそういう制度はないので、民間人ではダメだという理屈は、あくまで石破氏個人の思い込みにすぎない。だから、石破氏の理屈が通るならば、同じように、民間人でなければ防衛大臣は務まらないという理屈も通らなければおかしいことになる。ということは、石破氏の主張は何の根拠も説得力もなくなるのだ。
それどころか逆に、そうした客観的根拠のないことで、政治の体制を批判するのは、それこそ政治家としていかがなものかと思う。
さらに言えば、「防衛大臣は政治家がなるべき」「民間人では政治的責任が取れない」という主張の意味が政治家の主張であることを考えると私には理解不能だ。センテンスとしては主語述語がそろっているが、表現している内容がアーギュメント(「~だから…である」という論理形式)になっておらず、単なるステイトメント(主張)の羅列なので理解できない。わかる方がいれば、教えてほしいものだ。
なぜ「防衛大臣は政治家がなるべき」なんだろうか?なぜ「民間人では政治的責任が取れない」のだろうか?そもそも「政治的責任」とは何だろうか、三省堂の大辞林を引いても見つからない。
ひょっとして政治家とは、意味不明な言葉や、客観的に証明されていない個人の思い込みで、他人を批判してよいものなんだろうか。こうしたロジックで、政治家が政治家を批判するとすれば、論理矛盾ではないか。ゆえに、元防衛大臣が堂々と現防衛大臣人事批判をするというところに??????????と思ってしまった。これ、使ってる単語はオトナっぽいけれど、論理構成は「ボク、いやだからイヤなの」式の幼稚園並ではないかと思った次第。
と、まあ屁理屈を言ってきたけれど、愚息に話したらこの話、次の一言で一蹴された。「責任?何言ってんだ、コロコロ大臣を変えたり罷免を要求しておいて、もともと誰も責任なんて取ってないないし取りようが無いだろ。」
さらにいうと、この問題は、もう一歩踏み込んで考えると、情けない話が浮き彫りになっている。それは野党が反発する本音は森本氏が誰よりも「専門家」であるということだからではないか。森本氏は、どの国会議員よりもおそらく防衛の専門家であり、元衛大臣の石破氏も、田中前防衛大臣にクイズを出しては溜飲を下げていた元自衛官議員も、専門知識では森本氏に太刀打ちできまい。
だから正面切って森本氏を批判できない。うっかり批判しようものなら逆にやり込められてしまうからではないかと思う。元自衛官議員も、田中元防衛大臣に出したクイズまがいの質問をしようものなら、相手が森本氏ならば鼻で笑われるか逆襲されてしまうだろう。
この問題の病根はそこにある。口では「防衛」と言いながら、自分たちのパフォーマンスしか考えてないから、自分達より専門家が大臣になると攻撃しにくいということがミエミエ。全く国防のことなど考えていないことを露呈しているのに、それに気が付かないメンタリティには呆れる。
先の、「国会の廊下を先に歩くぞ」事件といい、なんとも国会の幼稚園化は嘆かわしい限りだ。
本日これにて
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