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2012/09/04

否定の文化

社会人としての経験を積めば積むほどに、思うことがある。それは、ああ、この国は否定の文化なんだなあ、という事。何らかの議論でも会議でも、雑談でも話し合いでも、とにかく相手の話や提案を否定する、特に重要度が増すほどに、この傾向があるように思う。

 

話題や提案はなんでも良い。まず否定から始まることが何と多いことか。地球温暖化防止⇒そんなのできっこないよ。原発停止⇒できっこないじゃん。改革?⇒出来もしない事を。環境アセスメント⇒(何だか知らないが)とにかく反対!こんな調子だ。これが個人の財産にかかわってくるとさらに拍車がかかり収集つかなくなる。

 

長年考えて、たどり着いたその原因の一つが、島国根性から来る「勝ち」にこだわるイメージだ。その前提にあるのは日本人は議論をしてお互い見識を高めるというより、議論に勝つことにこだわっている。だからもっとも手っ取り早いのは、相手の言うことを否定する事なのだ。

 

特に会議では、誰かが何か提案をすると、自分は何も提案できなくても、その提案を否定すれば何となく勝って、提案した人間よりあたかも優秀に見えると思っているようだ。この結果、人との相対評価を受ける分野では、先頭を走るものは不利益を被ることになり、保守的となってしまうのではないだろうか。

 

だから、多くの人が支持するのは、得てしてどうでも良い提案が多くなる。かなり穿った見方に思われるだろうが、どうも人々の議論や提案の価値判断基準には、「誰が」利益を得るかに関心が高く、中身にはあまり関心が無いように思える。

 

こう思った発端はかなり昔、ある大規模開発の環境アセスメントに関わった時だ。反対住民の怒号や質問のかなりの部分を、開発者はいったいいくら儲けるのかという事が占めていたからだ。開発者がいくら儲けようと、自分達にとって何が迷惑であるのかが論点のはずなのにと、若造だった私は目を白黒させてしまった。

 

そのうちに反対運動の旗手だったある女性が自殺したのに私は衝撃を受け、その後も、この開発事業に個人としてかかわろうと、以来地元行政の政策顧問になり、地元の研究会にも入り、それは今も続いているが、なぜか自殺者まで出したというのに、今や人々は全くこの事業には無関心だ。

 

その後も様々な市街地開発やこれに伴うアセスメントに関わってきたが、基本は同じ、何が地域に不利益をもたらすかではなく、何が開発者に利益をもたらすかに関心の大半があり、それを批判するという例が多かった。

 

極めつけは、自分が住む地区でのある公共事業をめぐって、住民運動のリーダーに担ぎ上げられた時だった。私自身は反対ではないことを明確に、動画で記録も残したうえで、計画内容の修正を求める条件闘争ならお手伝いしましょうと受けたものだ。

 

自治会の重鎮たちはそれまで、何もせず、それどころか、事業が動き出した情報すら知っていても住民に知らせなかったので完全に手遅れになっていたのだ。どうにもならないところにまで追い込まれてしまったので、専門家である私に何とかしてくれという事だった。

 

私は書いていた学位論文作業も放り出し、仕事も犠牲にしてこの問題に取り組んだが、あろうことか、頼んできた自治会重鎮たちが、陰でこの住民運動を妨害するのだった。後で漏れ伝わってきたのは、できっこないと思っていた住民運動なのに、私が新聞は勿論、TV局まで動かしたので、このままではアイツが目立ってしまうと思っての事だというから、島国根性極まれりだ。

 

自分達の生活が脅かされるから反対してくれと頼んでいながら、反対運動が成功してしまったら、ベンダソンの手柄になる、だから邪魔をする。こういう発想に絶句したが、これをあらかじめ予測した人がいた。それはTV取材をしたディレクターだった。彼に後日この事を伝えると、やはりそうなりましたかと言った。

 

このディレクターは、住民の取材に当たり、ある自治会重鎮の癖を見抜き、彼の顔を立てていたのはさすがと思った。ただし、この自治会重鎮はよほど自分が大物と勘違いしたらしく、TV局がオレんとこに取材に来て参ったよと連発していたが、実際には、ただおだてていただけで取材対象には全くなってなかったという。なので、放映された映像は終始私が中心になっていたので、恥をかかされたと逆恨みされたが、私には何の関わりもない事なので、このメンタリティは全く理解不能だった。

 

まあ、この事例は、極端に低次元のものではあるけれど、ケツの穴が小さいと言うか大なり小なり、我が国ではこういう低次元の発想が多すぎるようで、昔の人はこれを島国根性と呼んだ訳だが、これが世界でも有数の頭脳立国にもかかわらず、民度の低さをまねいているように思う。

 

悲しいかな、この島国根性は、西欧文化がはびこる現代においても、一向に無くならず、むしろ酷くなっているように思う。その端的な例が、国会に見る政治の空白と、マスゴミの恣意情報垂れ流しだ。

 

3党合意で行った法案審議にも関わらず、問責決議をしてみたり、第3極に対してラブコールがうまくいかなければ、自分達を棚に上げ経験不足だとなじる姿には、筋もへったくれもなく国家を憂う志なんて微塵も感じられない、あるのは単なる足の引っ張り合い、自己保身だけ。

 

その足の引っ張り合いも、冒頭述べたように、相手を否定するだけだ。本来なら相手を否定する前に、自分はこんなビジョンがあると優位点をアピールするのが政治家ではないか。政敵を否定しても、それに代わるビジョンが無ければ、アンタが優れている事にはならないのに何考えてんだ?と思う。

 

我々自身、そろそろ、この否定文化から脱却してはどうだろうかと思う。AとBがやり合っていたとして、相手を否定する事は、全く評価の対象外、むしろ、それだけで終わって自分のビジョンを示せないならば減点するような価値指標を持つべきだろう。

 

誰かをけなすのではなく、自分はこんなに優れた考えを持っているとアピールする事を評価する。そういう精神風土にならなければ、島国根性に支配された日本人は自滅の道をたどるしかあるまい。ネット上では竹島問題に絡み、隣国韓国の国民性をなじる意見が多くみられるが、本質的な民度の低さにおいては、日本も韓国も中国も目くそ鼻くそレベル、かの国の方が、みっともなさを堂々と晒す分、むしろ陰に籠る我々日本人より正直かもしれない。

本日これにて

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コメント

日本人ってバカだと思いますよ。
たまたまの高度成長を勘違いしているだけで。
やっぱりアジアは劣等民族です。
残念ながら。

投稿: 196号線 | 2012/09/16 17:15

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