« 頑固と信念の違い | トップページ | アメリカから押し付けられた憲法って、それが何か? »

2015/05/04

護憲だからと国民投票に反対するのはファッショと同じ

憲法改正論議や国民投票に反対する人がいるが、それは自分が憲法改正したくないからといってそれを人に押し付けているからその人の我が儘だ。賛成の人も反対の人も自分の意見を人に押し付ける権利はないからだ。そして国民投票を改憲と同義語に捉えている風潮があるがそれも間違い。憲法改正の国民投票の結果改憲否定となるかもしれないし賛成となるかもしれない、やってみなければわからないのだから、アーダコーダ言わず国民の意思を確かめるべきなのだ。以上が結論。以下補足説明。

 

よく憲法9条を守るべきだから憲法を変えるべきではないという人がいるが、それはその人の考えであって、そう思わない人もいる。だから人々が平等ならば同じ理屈を改憲論者も主張する権利はあるから、9条を変える必要があるから憲法は改正すべきだと言う主張も認めなければおかしい。

 

改憲するかしないかは、国民に意思を確認した上での結論であるはずなのに、皆自分の考えが正しいとの前提で、方法論である改憲のための国民投票の是非を言うのは論理的ではない。

 

そもそも、改憲を議論することは、改憲しないという選択肢も改憲するという選択枝もあるのであって、最も重要なことは、そうした議論や意思決定が民主的な手続きを経ているか否かなのだ。改憲であろうと護憲であろうと、何を大多数の国民が望んでいるのか、そこが問題なのであって、そうした国民の意思確認を、封じ込めてしまうのは、その人のわがままというものだ。

 

だから、護憲派も改憲派も含めて何人であろうとも、憲法改正の国民投票に反対するのはおかしい。現在の風潮は、憲法改正の国民投票をすると憲法が改正されると決めつけているフシがあるが、そんなことはやってみなけりゃわからないし、その結果、国民が改憲を認めなければ改憲派もその結果には従うべきだし、改憲が結果となったら同じく護憲派もそれを認めるべきだろう。

 

さて話は変わって、今、安倍内閣は一生懸命解釈改憲をやったり、国民投票の年齢を18歳に引き下げようとしているが、解釈改憲と18際投票の話は、民主主義の根本から考えれば天と地ほどの開きがある。解釈改憲は一部の人々が国家の根本的な舵取りの方向性を、国民の意思を確認することなく勝手に進めるのに対し、18際投票は、そのこと自体には決議に対して何の方向性にも結論にも影響しないからだ。

 

という訳で、投票を18歳以上とするか20歳以上とするかは瑣末な問題だ、現政府に有利な結論が導かれるというなら、逆も当然に起こりうるわけで政府の思惑と反対の結論になる可能性だってあるのだ。だから問題にするならば、国民の意思を確認することなく勝手に解釈改憲をしたり、国民投票の結果を時の政権の思惑通りに誘導することであって、そこに目を光らせるべきなのだ。国民投票そのものの是非ではない。マスゴミ報道に惑わされ、肝心なところから目をそらしてはいけない

 

以下余談

 

ハッキリ言って、闇雲に憲法改正に反対だからと改憲論議そのものを否定するのは、結局ファッショと根っこは同じだ。そもそも現実に軍備しており日米軍事同盟で国防が図られているのに憲法9条を守れというのは何とも奇妙な論理に聞こえてしまう。

 

ちょいと横道にそれるが、憲法9条があり非武装だから日本の平和があるとする理屈は、ガンジーの無抵抗主義と勘違いしてはいまいか、あれは英国植民地からの独立というシチュエーションにおける民族解放運動のという特種解であって、普遍的な解ではない。

 

平和とは社会の秩序の延長にあるから、もし非暴力で平和や秩序が保てるというなら、警察は何故武装するのか説明できなければならない。非武装の平和憲法で守られているはずの単一民族の秩序を保つのに、武装が必要なのに対外的には武装が不要というのは何とも説明しがたい矛盾ではないか。

本日これにて。

↓↓↓

人気blogランキングへ

 

|

« 頑固と信念の違い | トップページ | アメリカから押し付けられた憲法って、それが何か? »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/101905/61539363

この記事へのトラックバック一覧です: 護憲だからと国民投票に反対するのはファッショと同じ:

« 頑固と信念の違い | トップページ | アメリカから押し付けられた憲法って、それが何か? »