« アメリカから押し付けられた憲法って、それが何か? | トップページ | ■常に火種を残すのは国民性? »

2015/09/26

思い込み

ちょっと前まで、車のハンドルの遊びはリム上1~2センチは必要だとされていた。理由はうっかりハンドルを切ってしまった時危険だから、この遊びで不用意なハンドル操作を吸収するのだと、自動車教習所始め極普通にどなたも真面目に言っていた。

 

私は、不用意に切った分、車が反応しないということは、どんなにステアリングを注意深く操作しても、遊びの分はまったくコントロールが効かないから危険だと思うので、そう主張すると、先ず、何言ってんだ、何も知らないんだなとバカにされた。

 

さて、現代の車にはステアリングの遊びは存在しない。それは車の工作精度が上がったからだ。たかがステリングの話なので、取り立てて目くじら立てる話ではないけれど、常識を常識として信じてしまうようでは、少なくとも技術者としては失格だと思っている。

 

 

 技術者に限らず、世の中の常識は常に疑ってかかり、つじつまがちゃんと合うかどうか、自分の頭で考えてみるべきだろう。

 

例えば、子供の頃から非核三原則が当たり前とされ、沖縄返還の頃には国是とされた。恐らく大多数の日本人は、当然のごとくこれを当たり前と思っているだろう。

 

だが、その根拠は?

 

被爆国だから?

 

えっ?それはおかしいでしょ、だったら、「核兵器をもたず、つくらず、もちこまさず」ではなく「核兵器をもたせず、つくらせず」ではないのか。

 

そもそも主語はなんなのだ。主語が「人類」ならつじつまが合うけれど、世界で唯一原爆攻撃を受けた国が、自衛のための軍隊を有しながら、自らを「核兵器をもたず、つくらず、もちこまさず」と規制してしまうのはいったいどういうことなんだろうか。

 

攻撃してくる側に非核三原則を求めるのではなく、攻撃される側が非核三原則で拘束し、核攻撃から守られるとの主張はいったいどうゆうことなんだろうか。ならば、憲法9条で日本は戦争放棄したから戦争の危機から守られるということになり、自衛隊は不要となる。だが現実に自衛隊は整備されている。こういう矛盾に何故、皆無頓着なんだろうか。

 

非核三原則なる国是が、いったいどこの誰によって考えられたのか知る由もないが、日本を弱体化する戦略としては、実に情緒的国民性を見切った上手いやり方だと感心する。

 

核の戦争抑止力は絶対的だ、どんなにもっともらしい理屈を並べて否定しても、核保有国が攻撃されたことはないのは事実。せいぜいがフォークランド紛争のように本国から遠く離れた地域での小競り合いだ。

 

日本のロケット技術と原子力技術をもってすれば、高精度な核弾頭ミサイルはすぐ出来よう。核弾頭ミサイルを配備すれば、集団的自衛権なんて国連軍参加以外不要だろうし、果たして日米同盟も必要だろうか。

 

少なくとも、いざとなったらアメリカは日本を助けるだろうかなんて議論は不要だろう。何しろ専守防衛に徹し、もし日本が攻撃されたなら核の報復があるとなれば、いったいどこの国が攻撃するというのだろうか、反論する方は歴史が証明している事実を、どうやって覆すのだろう。

 

非核三原則を唱えることは、核はいや~っと叫ぶことではあるけれど、核の脅威を排除してはいない。核が本当に嫌なら核攻撃をされないようにすべきなのだ。殺人事件なんていや~っと叫んでみても、強盗に会えば殺されるだろうから、叫ぶことではなく強盗に会わないようにしなければ意味がない。

 

そして、非核三原則を国是として当たり前に考えている方に問いたい、あなたは昔、車のステアリングに遊びが必要だと思ってはいなかったかと。

↓↓↓

人気blogランキングへ

|

« アメリカから押し付けられた憲法って、それが何か? | トップページ | ■常に火種を残すのは国民性? »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/101905/62355569

この記事へのトラックバック一覧です: 思い込み:

« アメリカから押し付けられた憲法って、それが何か? | トップページ | ■常に火種を残すのは国民性? »