2006/09/06

名作映画について

Photo 私は映画が大好きだ。だから自宅には150インチ5.1チャンネル・サラウンドのホームシアターを造っちゃいました。もうずいぶん前からですがね。DVDのおかげでビデオの荒い画面と違って、音も映像も映画館に引けを取らない。で、ソファにひっくり返って酒を飲み・屁をひりながら映画を見るのだ。何をしようと自由、前のくそ親父の頭が邪魔だったり、べちゃくちゃしゃべるバカモノもいない。ホームシアターは最高、おすすめです。

今まで見た映画でお気に入りは、キューブリックと一部を除いた黒澤作品。キューブリックの作品は、どれ一つ取っても完璧で駄作が一つもない。対して黒澤作品もすごいが、残念ながら自分には理解できないものが少しある。

キューブリックで特にお気に入りは「2001年宇宙の旅」、但し難解で良く分からない、良く分からないけどスゴイ、感動した。この辺が良く分からないままで終っている黒澤作品との違いかな。「2001年宇宙の旅」をきっかけにキューブリック作品で見られるものは統全て見たが、どれもが全く違ったジャンルでしかも全て超一級品だ。

この辺が一発当てたら、その路線を踏襲する並みの監督とは違う、「ドクター・ストレンジ・ラブ」「シャイニング」「バリー・リンドン」「時計仕掛けのオレンジ」等々どれも全く共通点や脈絡無くバラバラのジャンルだ、要するに何を作らせてもサイコーなのです。あえて共通点を探せば、「時計仕掛けのオレンジ」が2001ほどではないが、ちと難解という点くらいだろうか。他の作品は特別に難解なものはないと思う。いや、一つあったか、晩年の「アイズ・ワイド・シャット」は正直よく分からなかった。

黒澤明も同じ位スゴイと思うが、邦画で残念なのは彼だけが際立っていて後がいないこと。とにかくハリウッド映画と比べると邦画のオソマツさは目を覆うばかり。日本人の体型や日本の風景が映画には馴染まないのだろうかと思っていたら、韓国映画の「シュリ」を見て、ぶっとんだ。姿形・街の様子も日本とそっくりな韓国でこれほど雰囲気満点の映画が出来るとは、この彼我の差はいったい何なんだろう。

最初は予算の関係かとも思ったが、どう見ても金をかけてないような韓国映画にも秀作が多いところを見るとそういうことではなさそうだ。タブン国策としてやっているので、映画作りの環境が違うのかも入れない。

しかし、環境や予算云々以前に邦画のどうしようも無いところは、監督の質が悪すぎる点だと思う。そう思ったのは北野武の作品が良く出来ているからだ。だから環境のせいではあるまい。北野作品はかつての巨匠ほどには至らないものの、一作一作確実に進歩し、初期の頃の素人くささが抜け、斬新さに進歩・昇華しつつあるように思えるからだ。今や巨匠と言っても良いのではないだろうか。

その北野作品にあって、最高傑作は「タケシーズ」だと思う。映画館ではなくレンタルで見たが、あまりのくだらなさ、稚拙さ、脈絡のないストーリーに最後まで見る気がおきず途中で止めてしまったが、間違いなく最高傑作だと思う。

では何故それほどくだらない映画が最高なんだろうか、それは正にそのくだらなさだったのだ。映画の中では功なり名を遂げた現実のタケシと、しょぼくれたクソオヤジ役のタケシが二役で登場する。陽と陰、勝者と敗者、誰にも分かるこの対比に、その区別が付かないアンポンタンな娘が、しょぼくれたクソオヤジを本物のタケシと錯覚し絡んでくる。

そして、ストーリーは延々と脈絡無くくだらないシーンを流し続けるのだ。しかもこれまでの進歩が全部後戻り、初期の素人くささが前面に出ている。カンベンしてくれろだ。ところが見ていてハタと気付いた。タケシにはめられたのだ。全くくだらない内容をタケシの作品と言うだけで見ている自分がいて、いい加減気付けよということ。自分の頭と感性はどうしたとタケシは投げかけていたのではあるまいか。

本物としょぼくれた偽のタケシは実は、そう勝手に観客が思うだけで、劇中どちらが本物つまり主役かは分からない。そして何も分からない少女ファンも本物を追いかけているのか偽者を追いかけているのか分からない。すべてが何が真実か、テーマか分からない中で、観客は、心のどこかでオカシイと思いながらも、「あのキタノ・タケシ」の映画なんだからと見入ってしまうのだ。

全く人を食った映画だが、自分がもし映画監督であったなら、やはりこういう映画を作って見たい。単品では全く下らない内容を堂々と金を取って見せるには、タケシ作品全体の評価があって初めてなしえることだ。こんな映画を処女作で作ったら、誰も相手にはすまい。

いきなり難解なピカソの絵を、その辺の展覧会で見て感動する人がいったいどれほどいるだろうか、予備知識としての評判があっての感動がフツーではないか。そう、人の感動・喜怒哀楽も実は、他人の評価や風評に相当左右され、いったい何処に個人の人格や感情があるのか、それがアナタ分かってるの?というのがタケシーズのテーマではないかと思った次第。

そのテーマを表現するために、タケシはそれまでの作品群とその評価をも材料として観客自身を映画に巻き込んだのだ。巻き込まれたまんま、何も分からず「スゴイデスネー感動すますた」と言うも良し、「分からん」と言うも良し、或いは私のように深読み?し屁理屈並べるも良し、全てはタケシの術中なのだ。と、まあこういう理由で、めちゃくちゃ下らない故、めちゃくちゃスゴイ映画で、そういうことを仕組んだ北野タケシはやっぱりスゴイと思ったのだった。

以上、私の論を決して深読みしないように、書いてあること以上でも以下でもないのでそのまんま受け取られたい、念の為。

ふう、疲れた・・・。

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