2009/12/22

アナタのためだから

ここ数年、日曜の朝はサンプロから始まるのが我が家の習慣だったが、ここのところの田原総一郎ボケぶりがひどいので見てなかった。ところが、今週は例の天皇会見の1か月ルールについてやると言うので見た。

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2009/12/16

天皇を政治利用しているのはどっち?

この日本、ある単語が出てくると、いったいどうしてしまったのかと思うようなお粗末な理屈がまかり通り事がママある。掲題にあるように、天皇と習近平副主席との会談をもって、天皇の政治利用と騒ぐのがそれだ。本気で言ってるとしたら噴飯もの、知能が足りなさ過ぎと言いたい。

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2009/08/15

国立追悼施設建設を理解できない人々

Elc0908132359017p1 今日は終戦記念日。各地で様々な行事が行われるだろう。この時期になるといつも論議を呼ぶのが靖国問題だ。原子力・天皇・靖国、の3文字は、この日本においてはタブーなのが、なんとも情けない。そしてタブーが表向きタブーとされてないのも、薄気味悪く(だからタブー?)、いかにも後進国っぽい。

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2007/09/07

ヤスクニ「神社」の参拝意義

yahoo掲示板に、掲題の書き込みがあった。我愚妻が、これアナタの書き込み?と聞いたので、わしゃ知らんよと答えたもの。どーりで分かり易い、読んでみろというので、むっとしながら読んでみたら驚いた。我意を得たり、下手な拙ブログの駄文よりもはるかに的確な表現に感心することしきり。以下に引用する。

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2007/05/11

筋の通らぬ靖国問題

相も変らぬ靖国問題、エセ右翼のヒステリー攻撃は承知のうえで敢て取り上げたい。結論を言えば、宗教法人である以上、国による靖国神社の特別扱いはいかがなものか。よって首相の参拝はもってのほか。靖国参拝は個人の勝手、参拝したい人が参拝し、したく無い人はしなければ良い。だから無宗派の国立追悼施設を造ればよいではないか。そして靖国に祀られるか否かもも含めて当然にそこに入るか否か、本人の勝手だろう。

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2006/09/04

戦犯について

Yokosuka_d4y3 靖国問題に続いて、戦犯について言っておきたい。A級戦犯が本当に戦犯かどうかではない、事後法によって裁かれたものが無効であるのなら、では戦争責任は誰が取るのか。あの当時は誰も戦争突入を避けられなかったと「空気」のせいにする向きがある。それはそれでもっともなところもあり、そうだろうなと思わせるところもあるが、それは開戦のいきさつのことだろう。

それとて誰にも責任が無いなどということはあるまい。もしもそんな理屈が通るなら、国家の舵取りに対して誰も責任を取らない全くの放置国家となるからだ。こんなことは言うまでも無いことだけれど、「空気」のせいにして真顔でこんな理屈を言う人々がいるのも事実。まあいいや、先行こう。最も問題にしたいのは負けると分かっている戦争に多くの国民を駆り出し、死地に追いやった責任だ。こういうとんでもないことが行われた事を皆さん忘れてはいませんか。

戦争遂行において、神風特攻隊を考え、生きて虜囚の辱めを受けずと命じた責任は無いのか、兵站無くして死地に兵士を送り込み、戦って死ぬならまだしも餓死させた責任はどうか、古今東西の歴史の中で、こんな惨い戦争の仕方をした軍隊が有っただろうかと言いたい。

戦争とは勝つことを目的としたクールなものだ。勝つためには損害の見積もりをし、より少ない損害を選び、戦略目的に見合うか検討し実施する。だから時には兵士が捨て駒として見殺しにされることもある。しかし、戦う武器や食料も与えられず、捕虜になるなら死ねと命令される軍隊では、いったい何が目的なのか、兵士を死なせる以外に目的が見出せないではないか。

だからだろう、日本の戦争体験者による戦記小説には戦闘シーンがほとんどない。例外なく軍隊組織内部の理不尽さ、悲惨さ、戦略の無謀さを恨む記述ばかりで、肝心の戦いの記述がほとんど無い。いったいどうやって戦ったのかサッパリ分からないのだ。

例外は戦闘機乗りの戦記ものくらいだろう、どういうわけか、空中戦だけは具体的だ。例えば、空中戦は命のやり取りをするから負けたら即、死であり後がないから常に全力で戦う、ここが体力を温存して逆転KOを狙えるボクシングスポーツとは決定的に違う、といった記述がある。聞けばその通りだが、命のやり取りを経験したものでなければ書けないだろう。機体をバンクさせ、横滑りで機銃攻撃をかわしたり、海面スレスレの低空飛行で敵の追撃をかわすというのも、読むまでその合理性に気づかなかった。

話がそれたが、こういった戦闘機もの以外はとにかく戦いに関する記述が全くといってよいほど無い。ただひたすら、軍隊組織の理不尽な虐めや、非人間性、飢餓地獄が延々と綴られている。いくら負けたからといって、これはオカシイ。戦闘の仕方を書くことがタブーなのかとも考えたが、昨今の逆説・仮想戦記小説ブームを見るとこれも当てはまらない。

横道ついでに言うと、日本で実戦体験を正面から捉え記述している作家は柘植久義氏ぐらいだろう。ただし同氏は旧日本軍軍人ではない、インドシナでの仏軍傭兵や米軍グリーンベレーにおける体験がベースだ。

いづれにせよ、実戦の話が小説にしろ、身近な体験談にしろほとんど聞こえてこないということは、それほど先の戦争における日本軍の軍隊生活が惨いものだった証だろう。何しろ赤紙一枚で召集され死を前提の神風を命令されるのだ。

いくら国のためとは言え、勝つ見込みがないのだから、全く無実の若者に死刑宣告するようなもの。こういう戦法を考え、命令した責任が無いはずが無い。たとえ考案者が自ら志願したとしても、本人の大義名分に他人を巻き込んで自殺に人を道連れにするようなもの、罪は免れまい。

何年か前に東条英機を扱ったプライドなる映画を見たとき、東条英機に対する見方が変わり評価も変わった。確かに東条英機は国家を憂い重責を担っていただろう。しかし、彼は自ら「生きて虜囚の辱めを受けず」と戦陣訓を公布しておきながら、それを守らなかった。言い分はあるだろうが、戦陣訓のもと多くの兵士を死地に追いやったことを考えれば責任なしとは言えない。

極論すれば、世界平和を唱え、同胞をポアした教祖との違いは何だというのか。東条英機を始めとするA級戦犯が本当に戦犯かどうか、あるいは人格者であろうとなかろうと、多くの同胞を無意味に死なせた責任においては当たらずとも遠からずだろう。

極東軍事裁判の是非と戦争責任は全く関係なく存在する問題だ。犯罪者がいて、それを偽裁判官が裁こうが本物が裁こうが、犯罪であることにはなんら関係なく、裁き方の基準が問題なだけなのだ。裁き方の基準が問題ならばそのことを議論すればよいのであって、決して戦争犯罪人を忘れてはならない。

繰り返すが、敵国に殺されたのではない、

     戦うことすらさせず、飢餓地獄で同胞を大量殺戮した罪

     民衆を洗脳し、バンザイクリフから飛び降りるよう仕向けた罪

     終戦となれば、軍人が守るべき国民を置いてきぼりにして我先に脱出し、なぶり殺しさせた罪

     戦争とはいえ、国際法に違反した731部隊を創設し命令した罪

等々、挙げれば限がないくらい自国民や占領地国民を死に追いやった罪がある。当然にそれを発意し命令した犯人がいるはずなのだ。私に言わせれば犯人はキチガイである。

先の戦争死者の分類をしていったならば、おそらく敵と戦って死んだ人よりも、国策によって死んだ人の方が多いのではないだろうか。侵略戦争と言われ中・韓の犠牲が取りざたされるが、キチガイの最大の犠牲者は日本人だろう。

なのに、日本人自らこのキチガイ犯人を裁こうともしない。まるで1億総羊の沈黙だ。以前「生まれて~、働いて~、食べられて~」とコマーシャルが流されたTVゲームがあったが、日本人の自虐ネタなんだろうか。日本人は殺されても文句言わない民族に見える。

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2006/08/25

靖国問題について

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靖国問題について議論する時、毎度の事ながら常に論点が定まらず、複数の異なる論点を同時並行に論じるのには閉口する。少し静かになったが、先の小泉首相の靖国参拝もそう。これについて考えてみたい。

この問題の論点、まず以下の3点とした。勿論他にもあるだろう、例えば国立追悼施設の是非等が考えられるが、それは首相の靖国参拝の是非に含まれる。大きくまずはこの3点から整理して、必要ならさらに論点を明確にして議論をしてみたい。

①首相の靖国参拝の是非について

②A級戦犯合祀の是非について

③極東軍事裁判の是非について

1.首相の靖国参拝の是非について 

まずは首相の靖国参拝の是非についてだが、その前提として、①首相は国の代表、事実上の国家元首である、②憲法20条信教の自由、国の宗教活動の禁止、③靖国神社は宗教法人、この3点を上げておく。この3点から、首相の靖国参拝は違憲と判断する、実に簡単な理屈だ。

自説に固執する気はないので、この点をどなたか明確に説明してくれれば考えを変えるが、当代の論客いづれの話を聞いても、誰一人この点を明確にはせず、感情に訴えたり伝統云々の話ばかりだ。

例えば、よく英霊に追悼の誠を捧げて何が悪いと言うが、誰も悪いとは言っていない。手段の是非を問うているのに、目的の是非を論じても何の意味もないのだ。ドーピングを咎めているのに、勝つ事がいけないのかと開きなおられてもなあ、である。

首相の靖国参拝の是非についてはこれで終わり、次に述べるA級戦犯合祀や極東軍事裁判あるいは日本の伝統とかも関係ない。論理的に違憲だからダメなのだ。

だから、追悼の誠を捧げたいのなら、だれもが来れるように、無宗派の追悼施設が必要であることは明らかだろう。信教の自由なんだからナンミョーでもアーメンでもそれぞれのやり方で追悼の誠を捧げれば良い、捧げ方は個人の自由なのだ。

なのに靖国派の人々は、神道は日本人の心だとか、八百万の神を受け入れるほど度量が広いからお参りしなさいと言う。そう思うのは勝手だが、そもそもそんなに度量が広いなら人に強制しなくても良いではないか。国立墓苑が出来たからと言って靖国神社を無くせとは誰も言ってないのだ。A級戦犯を合祀しようがしまいが、私はそれも関知しない、そちらの勝手なのだ。

2.A級戦犯合祀の是非について 

A級だろうがB級だろうが本来、合祀と首相の靖国参拝の是非には関係ない。先に述べたように首相参拝は違憲だからダメなのであり、合祀は一宗教法人である靖国神社の問題だからだ。たまたま共通単語が戦没者というだけで、捉える意味合いが全く違っているのだ。エレクトリック・カーを「電車」と捉え、片や「電気自動車」と捉え同列に議論するようなもの。

一宗教法人の教義であるから何をどう考えようと勝手、「ろうそくの火を次々継いでいけば火を区別できない」あっそう、どうぞお好きにしてください、である

キリスト教や創価学会、はたまたカルト教団もまた、同じように勝手に考えるだろう。そういう次元の話だ。なのに、八百万の神だかなんだか知らないが、それを日本人の心だ伝統だと押し付けられても困る。

経緯に国が介入した疑問があったとしても、大枠では一宗教法人が勝手に合祀しただけの話。例えば、アナタが王監督を神様と崇めようと、誰を崇めようと勝手であり、他人にこれを強要しない限り王監督は文句を言えないのだ。ただし、勝手に自分の親や先祖を祭られたら、誰しも良い気持ちはしないだろう。

靖国神社はそれをやっているのだ、そういう宗教は知る限り靖国神社だけではあるまいか。

同じように、中韓がA級戦犯合祀をとやかく言うのも、靖国神社が一宗教法人の教義の一環として行う限りにおいては、大きなお世話であり、内政干渉だ。

しかし、そこに首相が参拝するとなればこれは、国家の意思表明となるだろうから、彼らの怒りに正当性が出てきてしまう。何の事は無い、本来は日本国憲法で保障された中での一宗教法人の活動に過ぎず国内問題にすらならない事を、わざわざ国際問題にしているのだ。

A級戦犯を立正佼成会や創価学会、どこかの教会、はたまたカルト教団が崇め祀ったと考えれば分かりやすいかもしれない。週刊誌ネタとして賛否両論巻き起こるだろうが、公の議論や国際問題にまではなり得ないのだ。

だから靖国神社のA級戦犯合祀自体は、元々中韓もそれほど問題にしてはいない。当然に首相になる前の小泉氏が参拝しても文句は言わなかったではないか。

3.極東軍事裁判の是非について 

次に合わせ技で常に同時に語られる極東軍事裁判の是非について考えよう。こんなものは戦勝国が勝手に創った事後法によって裁かれた裁判だから無効だとの考えは、一般論として正しい。良い悪いを論ずる以前の常識だろう。

しかし、日本は1951年のサンフランシスコ講和条約でこれを受け入れたのだ。国際条約で受け入れた以上は、それ以降は国家の意思として国際的に確定したはずだ。それを後になって、国民が個別にあれは無しよと言ったところで、誰が誰に対してどの様な責任を持っての発言か分からないから、単なる放言に過ぎず何の意味もない。聞かされた相手も、So what ? だろう。

判決の刑は受け入れたが裁判は受け入れてないなどと言うまか不思議な主張もSo what ?だ、専門的な法学論争としてはありだが、それがサンフランシスコ講和条約の11条とどう係るのか、何よりこの11条に遡り改定しない限り意味がない。

気持ちの上では、そんなマカ不思議な屁理屈(失礼!)を持ち出すまでもなく、戦勝国による事後法の一点をとっても極東軍事裁判が理不尽であることは、日本ばかりかアメリカを除く世界が認めていることだ。そういう分かり切った事が問題なのではなく、問題は分かり切った事に国際条約として日米双方が調印し確立した事実と、アメリカ下院は現在も「極東国際軍事裁判の決定、及び“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決は有効」との立場を取っている(2005714日決議)ことなのだ。

対して、日本は公式な総括を国家の意思として表明しておらず、国際法学会で日本の学者がジャッジメントの解釈について自説を述べたに過ぎない。繰り返すが、ほとんどへ理屈のようなジャッジメントの解釈を個人があれこれ論じたところで、ハッキリと極東軍事裁判は無効であると、日本国が国家の見解を主張し公式に認めさせなければ意味がないのだ。

では仮にこれを認めさせたとして、ではA級戦犯は戦犯ではなくなるだろうか、極東軍事裁判が無効だとしても、日本を一億総玉砕とアジり敗戦に導いた責任は誰かにある。これについては後日としよう。 

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2005/10/25

靖国派の実態は?

たまたま、一昨日、地域の趣味的活動の集まりがあって、夜、打ち上げをしていた。そのメンバーは10名程度で、酒が進むうち、どういうわけか政治問題はご法度のはずだったが、誰言うとなく、小泉首相の靖国参拝が話題となった。

で、そこでの一致した意見は、国家神道が廃止され思想信条・信教の自由が憲法に謳われてるのだから、首相の靖国神社参拝はおかしい。英霊を追悼する無宗派の追悼施設を何故造らないのか、というもの。

誰かの、靖国神社はどうするのかとの問いに、皆、それは靖国神社の問題であり、靖国神社が好きにすればよいと。また、憲法9条についても、交戦権を認めるべき、その代わり侵略しないよう領土拡大禁止を憲法に謳うべきとも。普段、私がこのブログ主張している通りのことを皆が言うので驚いた。

彼らは、私がこんなブログをやっていることなど知らないし、そこでは一切政治や思想的なことをこれまで話したことも無いので、正直、これはどういうことかと思い、世間では靖国神社を絶対視して、俺が信じるからお前も式に、問答無用という人がかなり大勢を占めているような印象だが、ここにはそういう人が居ないのか、と問うたところ、誰もが自分はそうではないし、会社でもそんな人は居ないと思うとの答え。

これはどういうことだろう、実際、私の周りでも公私に渡り靖国派はほとんど居ないので、薄々そうではないかとは思っていたが、実際のところ靖国派というのはそんなにいないではないだろうか。

一般の靖国神社参拝者も、たまたまそこに身内が英霊として祀られているからで、多くは別に神道というわけではなく風習として参拝しているのではあるまいか。そして何か儀式が必要なので、たまたま神道の儀式が古来からあるので、うん、何だか分からないが伝統的だから、まあこれでいいだろうと、そんな気がする。

右翼が天皇陛下万歳、靖国絶対と言うのも、実はほとんどの右翼と称する人々は天皇陛下個人や宗教施設としての靖国神社にそれ程の思い入れは実はなくて、それを唱えれば単に横暴が許されるからではあるまいか。

ある戦中派の元陸軍中尉だった俳優が、「靖国で会おうなんてのはウソだ、誰もそんなんで死んではいないよ。」と言っていたが、アレが本当だろう。靖国派と目される人々の実態はトンと分からないが、なんとなく右翼の声が大きいし、選挙の票になりそうなので、政治家も靖国派を標榜しているが、実態はハリコの虎なんじゃなかろうか?

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2005/10/05

日本のタブー

日本人のダブルスタンダード、ご都合主義は、既に何度か述べました。この摩訶不思議な現象は、山本七平著「空気の研究」に詳しいが、読んで尚分かりにくい点もあります。そこで、今日は分かりやすく日本のタブーについて書きましょう。そこから日本を支配する空気が見えてくると思うのです。

タブーその1:天皇の位置付けと責任

右翼は天皇陛下を絶対視します。山本七平言うところの、相対或いは対立する概念不在の、絶対的臨在観です。絶対的存在ですから、尊敬以外の会話はありえず、それ以外は全て不敬となります。理屈は全く入る余地が無く、神そのものです。

しかし、この根底にあるのは、天皇に対する絶対的尊敬の念ではなく、トラの威を借るところにあるように思います。少しでも天皇批判に結びつきそうなことがあれば、目を三角にして、襲い掛かりますが、その根底にあるのは、皇室に対する敬意と言うより、権威に同化し、コレ幸いに他人をやっつけているに過ぎません。

右翼に好かれても、当の天皇陛下は迷惑なだけなんじゃないんでしょうか。子供の頃から不思議だったのですが、日本では何か事件が起こると、何でもかんでも長の責任になります。運転手がミスを怒られるのが怖くてスピードを出しすぎて大列車事故を起こしても、当の運転手よりも、実際どうにも出来得ない社長の責任を追及します。

社長が就任する以前のことでも、結果が今なら今の社長の責任を追及します。これは実際の責任の所在など実は、どうでも良くて誰かを血祭りに上げれば満足だからです。或いは長がタダのお飾りでも、責任を追及します。

ところが、大日本帝国憲法の下では陸海全ての軍の最高責任者であった天皇の戦争責任は追及されません。実際問題、天皇に責任があったとは思いにくいのですが、しかし何故ここだけ急に現実的で物分りがよくなるのでしょうか。

あなたがもし業務上不祥事を起こしたならば、上司はおろか、あなたのことをどこのどなたかも知らない社長の責任になるでしょう?なのに何故、天皇の戦争責任となるとこうなんでしょう。よく言われるのが、天皇に戦争責任を負わせてしまうと日本人に求心力が無くなってしまうというもの。

しかし、私の見る限り、実生活において日本人がそれほど皇室に敬意を払っているようには見えません。右翼がどこにいるか分からないので、不特定多数の前では皆さん敬意を払ったかのような発言をしますが、一度仲間内の会話になると必ずしもそうではないようです。

そして、極稀に天皇陛下にたいして敬意が足りないと怒り出す人がいますが、尊敬する人への気持ちの表れと言うよりも、先に述べたようにトラの威を借りるがごとく、権威の威光をかさにうっぷん晴らしをしているに過ぎません。もしマッカーサーの占領政策が継続していたなら、占領軍の威光をかさにきて傍若無人に振舞うのではないでしょうか。そう思えてならないのです

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2005/10/01

靖国派と日本人のズルさ

私はこのブログで一貫して、「靖国神社を否定しない。何を信じようとそのひとの勝手だから、その代わり強制されたくも無い。」と言って来ました。コレは基本的なものの考え方であり、靖国問題であろうと、歴史観であろうと、或いはオウムでも何であっても同じ、たまたま対象が宗教法人としての靖国神社であるだけなのです。

で、いつもこの靖国神社関係の問題になると、所謂靖国派の人々は何故にああも論理矛盾に無頓着な強弁を繰り返すのかが不思議でなりません。幾つかの決まったパターンを具体例を挙げましょう。念の為言いますが、コレは靖国派の論理に対して批判しているであって、靖国神社を対象にはしていません。(ついでに言えばコレだけハッキリ前提を明言していても理解できない人がいて、この後必ず論点のずれたヒステリックな反論が寄せられることを予告しておきます)

①靖国は日本の伝統的風習、日本人の心だ。靖国は寛容だ。
→そう思うのは勝手、他人もそう思うべきなら、ルールとして法で明確にすべき。でなければ、そう思わないのも勝手で、憲法で保障されている。
→寛容なら、分祀に応じればよい。別に他宗教を受け入れなくても良いから、靖国神社以外の思想信条を信じることも認めれば?お互い自由ではいけないの?

②だから靖国は宗教ではない。
→宗教法人でなければそういうのもアリですが、宗教法人である以上解釈の問題ではありません。

③合祀されれば皆同じ、分祀は教義に反する。国家と言えども応じられないし、外国から言われる筋合いではない。
→まったくそのとおりで、内容に賛否両論あろうが、どう考えようがその宗教の勝手、外国から言われる筋合いもない。ただし国家神道ではないのだから、祀られるか否かは個人(故人)の意思が優先するはず。

④靖国で会おうといって皆死んでいったのだから、靖国が戦没者の追悼施設、他は要らない。
→この論理は子供だまし、なぜなら靖国が国民の総意だから他は不要と言っているが、総意なら、そもそも靖国問題は起こらない。問題になっていることが既に総意ではない。仮に時の経過がそうさせたと言うなら、今現在総意ではないことであり、現在において追悼施設を造ることに反対できないはず。

とまあ、こんなところでしょうか。論理展開の流れから以上の順に書きましたが。ポイントは②の宗教法人であることです。そして日本国憲法では思想信条・信教の自由を保障していること。この2点から全て論破されてしまうのです。

靖国派は、この2点の矛盾点に対しては、全く答えず、以上①~④を個別に主張しますが、他から見ればご都合主義で日本人のズルさの証明にしか見えません。結論が先にあって、時には宗教法人、時には風習と都合よく前提を変えてしまい論理に一貫性が無いからです。ただし、当の本人はそうは思ってないかもしれません、本気で部分部分でしかものを考えず、全体観がまったく欠落している場合、こういう指摘自体が理解の範囲を超えているかも知れないからです。

何度も言うように、私は靖国神社を否定するものではありません、あくまで一宗教法人として中でどう考えどのような教義であろうと靖国神社及びその信者の勝手です。しかし寛容というなら、嫌だと言うものに強制はないでしょう。合祀したら分祀出来ないなど、ヤクザじゃあるまいに。靖国神社に行けなくなるならともかく、別に追悼施設を造るのはケシカランというのも同じ。

自分だけが正しくて、他人もそれに従えという考え方なのです。だとしたら、憲法を変えて国家神道とするとか、宗教法人ではなくNPOとするとか、少なくとも、良し悪しは別にして論理くらい整理して欲しいものです。もし日本人にルールを守る習慣があるならそうすべきです。無ければ、力関係でモノが決まるので、議論やルールは無意味となることは言うまでもありません。結局のところ日本はそういう国なんでしょうか?

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